中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第2486回
私は中国投資のトップバッターです

私は共産党治下の中国では経済もなかなか発展しないし、
こんなところに進出しても敵視されるだけだから、
なるべく中国大陸は避けて、
日本の企業は東南アジアで合弁したほうがいいんじゃないか
という意見の持主でした。
ところが、毛沢東の死んだ後、
実権を握ったケ小平が自由市場や4つの経済特区で
生産に力を入れるようになり、
とりわけ年に3万人の青年たちを
海外留学に送り出す決定をした時、
これで中国はもう後戻りはできなくなったと直感しました。
3万人もの若者を欧米から日本にまで送り出したら、
この人たちは自由主義や資本主義の洗礼を受け、
二度とマルクス・レーニン主義には
戻れなくなるにきまっていると思ったのです。

そこで私はずっと断わり続けていた大陸行きを承知して、
中国大使館のお世話で生まれてはじめて北京を訪問し、
4つの経済特区をつくった中国の経済建設の担当をした
谷牧さんという副総理だった人と
人民大会堂で初会見をしました。
共産党にもこんなわかりのいい人がいるのかとびっくりしましたが、
話しをきいているうちに中国は大きく変わるなあと確信しました。
もう18年あまりも前の事ですが、
以来、私は中国大陸がどう変化するかに注目するようになり、
ちょうどケ小平がが改革開放政策を打ち出す半年前に、
台湾の実業家たち40名(うち上場企業のトップが5名)
を引き連れて上海・北京入りをしたのです。

私は中国じゅうどこに行っても、
その土地のトップの人たちから
ぜひうちのところで投資をして下さいと頼まれ、
上海からはじまって、
北京、天津、成都、合肥と
それぞれの土地に似合った業種に投資をし、
全部が私のふところ金ではありませんが、
2億ドルあまりのお金を注ぎ込みました。
ふだん私とつきあいのあった日本の経済評論家の人たちから
総反対をくらいましたが、
私はひるみませんでした。
その時、私が引っ張って行った
日立建機は合肥に工場をつくりましたが、
その時2百円台だった株価はいま3千円になっています。


←前回記事へ

2006年12月30日(土)

次回記事へ→
過去記事へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ