中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第3842回
傘一本持って横浜に上陸した私

私が世間から
「お金儲けの先生」みたいな扱いを受けるようになったのは、
私自身も考えていなかったような偶然のきっかけからでした。

私は29才の時に、
妻と1才あまりになる長女の世賓
(皆からサイパンちゃんと呼ばれている娘です。
香港生まれですから、
ジョセフィンという英文名をつけたのですが、
漢文の当て字を広東語風に読むとサイパンになります。
香港では皆からそう呼ばれていましたが、
日本ではサイパン島なら誰でも知っているので、
1ぺんきいたら誰でもすぐ覚えてくれる名前です)
を連れて、ベトナム号というフランス郵船に乗って
香港から横浜へ上陸したのです。
そのまま日本に住むようになるかどうかは
まだ決めていませんでしたが、
目的は生まれた時、
娘の首に赤い痣があって、
それが破れて化膿して膿をもち、
ペニシリンを40本打っても治らなかったので、
香港のお医者さんから「治療費をもらうことには興味があるけど、
痣にはさして興味がないから
日本に行って治療を受けたらどうですか」
とアドバイスを受けたのです。

東京にいる私の姉に相談したら、
姉が友人に相談して元の海軍病院から看板がえをした
第ニ国立病院に放射線科の山下先生を尋ね、症状を話したら、
「うちで診てあげましょう。一週間に一ぺん治療に来て下さい。
でも1年くらいかかりますよ」
と言われたそうです。
さしあたり娘の痣の治療の方が大切なので、
私たちは新しく買ったばかりの香港の家を畳む決心をし、
三階建ての洋館を人に貸し、
その家賃で細々と少くとも1年は暮らす決心をして
昔私が勉強をしていた東京へ戻ってきたのです。

その時、横浜の税関で荷物を調べられ、
応待に追われているうちに、
香港で買ったばかりの
当時、日本人が誰も持っていなかった
ボタンを押すと自動的に笠のひらく
最新型のドイツ製の蝙蝠傘を置き忘れて上陸してしまいました。
悔しくて悔しくて
いまでも思い出しただけでも胸が震える私のポカです。


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2010年9月16日(木)

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