中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第3843回
専業作家を志して満2年で直木賞

娘の痣の治療に東京に1年も住むことになりましたが、
私は東京に就職のあても、収入の道もありませんでした。
でももしかしたら小説家として、
1人前になれるかも知れないという、
人からみたら夢のような野望を持って東京へ戻ってきたのです。

どうしてかというと、
日本と香港の間を往復してやれるビジネスを
少しばかりやっているうちに、
香港に帰った時に読む日本の本や雑誌を
どっさり買って帰っていました。
それらの雑誌に目を通しているうちに、
「こんなストーリーを書くくらいのことなら
自分にもできるんじゃないか」
と妙に自信を持ってしまったのです。
オール讀物新人杯で作品の募集をしていたので、
試みに「龍福物語」(のちに「華僑」と改題)
という小説を書いて応募したら、
何と900何十篇もあった応募作品の
最後の5篇に残ってしまったのです。

その通知を受けたのが
私が家族を連れて香港から東京に移住する直前のことでした。
もしかして当選するのではないかと俄かに胸をわくわくさせながら
ベトナム号に乗り込んだのです。
でも、船が横浜に到着したら
迎えに来てくれた東大時代の同級生の兄さんで
文藝春秋の記者をしていた人から「残念でした」
と結果を知らされました。
おかげで税関に雨傘を忘れて出て来てしまったのは
そのショックのせいだったかも知れません。

でもとにかくはじめて書いた応募作品が
900何十篇の中の最後の5篇に残ったのですから、
もしかしたら自分にその才能があるのではないかと
考えたとしても誇大妄想ということにはならないでしょう。

どうせ娘のために1年間は日本にいなければならないのですから、
その間に死物狂いになって作品を次と次と書けば、
「犬も歩けば棒に当る」くらいの実績は
あげることができるのではないかと妙な自信を持ったのです。
本当に1年の間に柳行李が一杯になるくらい
原稿を書いて書きまくりました。
「もし2年やっても芽が出なかったらこの職業はあきらめる」
と放言して同業の10年選手たちから叱られましたが、
おかげで満2年で直木賞をもらうところまで
辿りついたことができたのです。


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2010年9月17日(金)

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