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第3845回
直木賞もらっても原稿の依頼はゼロ

あれから50年たってしまいましたが、
いまでは純文学とか大衆小説という区別もありませんし、
長谷川部屋とか、佐藤部屋と言った小説の研究会もありません。
でも半世紀前は畑が違うと、作品の評価をする人も違うし、
同じ物書きでありながら、お互いに口もきかないといった
別世界の人たちだったのです。

ですから私が直木賞を受賞した時、
どちらの人も私のために祝賀会に参加してくれましたが、
お互いに口をきいたこともなかったし、
今更「はじめまして」とか、「私は誰々です」と
自己紹介するのもおかしな話だったので、
席を設ける時に私の右には壇一雄さんが坐わり、
その右に佐藤春夫先生、
そのまた右に井上靖さんといった具合に純文学の先生が坐わり、
私の左には村上元三さん、次が長谷川伸先生、
その次が土師清二さんと言った大衆畑の面々が並び、
スピーチをする時も左右とかわりばんこに喋って
間にけされた私は緊張して
笑うどころの騒ぎではありませんでした。

しかも案内状を書く時に、
司会を引き受けてくれた西川満さんが
私が「台湾脱出をして」と
台湾の国民政府を刺激するような書き方をしたので、
招待した台湾同郷会の会長さんから
怒鳴り込まれる一幕もありました。
結局、ご本人は出席してくれましたが、
そういうポーズでもとらなければ、
当時の台湾の政府から睨まれる雰囲気だったのです。

そういう空気の中で、当時、
日本籍でなかった私がはじめて日本の文学賞を受賞したのですが、
今ならジャーナリズムがわあッと押しかけて来て、
忽ち仕事に追われることになりますが、
当時はどこの雑誌社も新聞社も
私に原稿を書いて下さいとさえ言ってくれませんでした。
あの頃のジャーナリズムは
日本人は日本人の書いた日本の小説しか読まれないと
堅く信じて疑わず、
私のような日本人が1人も出て来ない作品は
全く受けつけてくれなかったのです。
ですから文士としての鑑札を一応はもらったものの、
ろくに仕事もなく、
原稿書いて生活して行くことは夢のまた夢だったのです。


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2010年9月19日(日)

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