「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第249回
想い出の詰まったハンバーガー (その2

今はなき新橋の雀荘「R」は
古い木造2階建ての2階にあった。
1階に中国人の料理人が腕を振るう大衆的な
中華料理店があり、そこからニラそばをよく取り寄せた。
徹夜で麻雀を打ち、そのまま一睡もせずに
ホテルに出勤して昼と夜の間に3時間ほど仮眠を取る。
こんな生活は若さの暴走のようなもの、
そんなに長くは続けられない。

バイトで稼いだ金をフトコロに海外に旅立った。
最終目的地はパリなのだが、
この2年前に欧州を一通り回ったので
今度はアフリカを旅してからフランス入りする腹積もり。
エジプト航空の旅客機でカイロに向かった。
エジプトでは食事にあまり困らなかったが、
たまたま知り合いになったサウジアラビアの
富豪に招かれた食事の際、牛フィレのステーキで食中毒。
医者にはかからなかったけれど
丸2日間というもの嘔吐と腹痛に苦しみ抜く。
わが人生で食中毒はこれが最初で最後だ。

時間はたっぷりあったから
カイロには2週間近く滞在しただろうか。
この間、ルクソールにも行かなければ
アレキサンドリアすら訪れなかった。
今思えばもったいないハナシだが、
もともと名所旧跡にはあまり興味がない。
そろそろエチオピアにでもと思い始めた矢先に
勃発したのが第四次中東戦争。
隣国スーダンの首都・ハルツームに脱出する。

ハルツームでは美味いものを食べた記憶がまるでない。
様々な果物のジューススタンドが
市内のいたるところにあってこれはうれしかった。
100%フレッシュの果汁が格安で飲めるのだから
大いにビタミンを補給したものだ。
この頃しきりにハンバーガーや
ホットドッグが食べたくなる。

次の行く先はエチオピアのアディスアベバ。
この国はムッソリーニの侵略を受けていて
そのときの習慣の名残りか
スパゲッティをやたらめったら食べる。
けして洗練された料理にはなっていないし、
麺自体がアルデンテにはほど遠い。
ヴァリエーションにしたって
ミートソースかミートボールばかりだった。

アディスアベバの街で一番驚いたのは
おびただしい数の春をひさぐ娘たち。
外国人が泊まるホテル1軒につき、
その周りをいかがわしいバーが5〜6軒ほど
取り囲むように並んでいて
それぞれに10人前後の女性たちが
止まり木に止まっていたのである。

シバの女王の末裔である彼女たちは
ほかのアフリカ諸国の女性の顔立ちとは
明らかに異なる陰影の深い容貌をしていた。
地球上の単一国家の中で
独自の容貌を持つ国民を有する国は
エチオピアをおいてほかにない。

        =つづく=

 
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2007年6月14日(木)

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