「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第672回
しばし別れのパレスホテル(その2)

パレスホテルの名残りを惜しむはずが
ステーションホテルの思い出話になっている。

その1968年夏。
ステーションホテルでのバイトの休憩時間によく、
皇居のお濠のほとりまでブラブラと歩いたのである。
そのときに濠端のパレスホテルを見上げたのだ。
スカイラウンジの灯りがロマンチックだった。
当時のバイト先の先輩が
「女を口説くときはあそこへ連れて行くんだ」と、
自慢げに指差したものだった。

映画評論家にして料理にも造詣の深い故・荻昌弘さんは
霞ヶ関ビルとホテルオークラのラウンジの
はしごが決め手だったそうだ。
彼の著書にもちゃんと書いてある。
それでもなお、オチない女はあきらめろと――。

今さらながらに白状すると、J.C.の場合は
帝国ホテルの17F「レインボー・ラウンジ」。
ホテルのラウンジの中で最愛の場所であり、
長いこと、本当にお世話になった。
高校時代はともかく、大学に行くようになって
多少なりとも懐具合が改善され、それからはよく訪れた。
以来ずっと、ホームグラウンドであり続けた。
ところが数年前に予期せぬ大改造ならぬ、大改悪される。
帝国の犯した最大の愚挙が太平洋戦争なら
帝国ホテルの犯した最大の愚行がこれである。
おかげでムードも何もなくなってしまった。

ステーションや帝国にずいぶんと寄り道した。
今週末には建て替えのために
一時クローズするパレスホテルに話題を戻す。
およそ30年余りのあいだに
館内のレストランやバーはすべて訪れている。
料理の水準でジャッジすると、
最高点は和食店「和田倉」。
ここの天ぷらがきわめて秀逸で
炊き立てのごはんは都内屈指のレベルである。

もちろん「クラウン・ラウンジ」にも何度も足を運んだ。
思い出深いのがお隣りの「クラウン・レストラン」。
もう20年も前のことだが入り口に水槽があって
たくさんの虹マスが泳いでいた。
鯛や平目の舞い踊りではなく、
虹マスの群れだけであった。

なぜか?
すべてはフランス料理の古典、
トリュイト・オ・ブルーのためなのである。
本家では川マスを使い、直訳すると
川マスの青煮ということになる。
マスは活けでないとブイヨンで煮たときに
青い色が出てこないのである。
体表面のぬめりが色素の源泉だと思われる。
下町で食べるマル鍋のどぜうが
ときとして青ざめて見えるが、おそらく同じことだろう。
もうどこのレストランもやらなくなって
忘れ去られたレシピとなってしまった。

            =つづく=

 
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2009年1月29日(木)

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