「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第757回
横浜から船に乗って(その1)

十代の終わりから二十代の前半にかけて
貧乏旅行で世界各国を廻った。
1〜2泊しかしない街では
その土地々々の食べものを味わっているうち、
すぐに出発の日がやってくる。
それがパリやローマの大都市ともなれば、
少なくとも1週間は滞在するわけで
となると、和食が恋しくなったりする。

初めて欧州を訪れた1971年。
外貨の持ち出し制限が400ドルでしかなかった時代。
横浜の波止場を出たハバロフスク号は53時間かけて
ソ連・沿海州の港町・ナホトカに入港。
このとき40人ほどの日本人が上陸したはずだ。
実際はもっと多かったのかもしれないが
とにかくわれわれは
JTBルック欧州行き片道旅行のメンバーの一員。
着いたら解散のワンウェイチケットで
ツアーを構成したのがおよそ40人だったのである。

港のそばのチーハ・オケヤンスカヤ駅から
夜行列車でシベリア最大の都市・ハバロフスクに入り、
そこから国内便でユーラシア大陸を一っ飛び、
モスクワに到着したのだった。
当時のソ連当局のえげつない外貨獲得政策により、
外国人旅行者はモスクワで
最低2泊の足止めを食う、不便な時代だった。

モスクワからはそれぞれが目的地別に
三派に分かれて国際列車の旅である。
一番人数の多かった行先はオーストリアのウイーン。
続いてフィンランドのヘルシンキ。
少数が当時はまだ西ドイツだった西ベルリンへ向かった。
J.C.はサンクト・ペテルブルグを経て北へ。
最近ブームになっている「罪と罰」の舞台となった
美しい街もレニングラードと呼ばれていた時代である。

ソ連とフィンランドの国境を越えると景色が一変した。
家々の屋根や壁の色が一気に明るくなるのである。
国境の警備兵も一緒にスナップ写真に収まってくれるなど、
ソ連では考えられないことだった。
そして何よりもうれしかったのは
横浜を出て以来、ずっと虐げられていた舌が
ここで初めて食べものの美味しさに再会したことだ。
あれはヘルシンキ大学だったかな、
学食で食べたミートボールのうまかったこと。

こうしてオカザワ少年の欧州旅行が始まったのである。
ちなみに欧州第一夜となったヘルシンキの安ホテルは
あの五木寛之さんがやはり一宿した
ホスピッツという名のホテル。
何かの雑誌で読んでそれを知り、
驚くとともにとてもうれしかったのを覚えている。

ヘルシンキ―ストックホルム―コペンハーゲン―
ハンブルグ―ハイデルベルグ―ミュンヘン―
ヴェネツィア―フィレンツェ―ローマ―ナポリ―
ミラノ―ベルン―グルノーブル―マルセイユ―
マドリッド―パリ―ブリュッセル―アムステルダム―
ウイーン

こうして未成年が独り、欧州をさまよった。

           =つづく=

 
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2009年5月28日(木)

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