第904回
花の吉原 桜なべ
東京の一大ソープ街・吉原。
すでに大門(おおもん)の姿なく、
交差点にその名を残すばかり。
角のガソリンスタンドの存在も
道行くものの興趣を殺ぐことしきり。
脇では見返り柳が吹く風にその葉をそよがせていた。
柳のはす向かい、左手には天ぷら「土手の伊勢屋」と
ケトバシ(馬肉)の「中江」が肩を寄せて
古色蒼然たる大正建築の甍(いらか)を連ねている。
スゥーッと視線を右手に移すと
これもまた桜肉を扱う「土手あつみや」がある。
その日は夕刻から日暮里・根岸と散策を続けていた。
ふと立ち止まって迷ったのは三ノ輪の大関横丁。
南千住から大橋を渡り、北千住に向かおうか、
泪橋を目指して山谷に回ろうか――。
思案の末、山谷を抜けて吉原にやって来た。
ときすでに灯ともし頃、
これ幸いにちょいと早めの晩酌を決め込んだ。
胡麻油香る「伊勢屋」の天ぷらでは胃に重い。
かといって「中江」の独り鍋はうら寂しい。
そこへゆくと「あつみや」の居心地は悪かない。
独りで鍋を突っついていてもサマになるし、
店先の灯りに心誘われるものもあった。
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緋桜のロゴと馬さしの提灯に風情あり
photo by J.C.Okazawa
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引き戸を引くと、いい具合に空卓が1つある。
近所の住人と思しき十数人の男女が
入れ込みの畳敷きで開く宴会も今が盛り。
少々やかましいが、我慢のできぬほどにない。
上着を脱いで壁の短冊を見上げた。
戻りかつお、穴子天ぷらにそそられるものの、
独りでやる桜なべの前には余計だろう。
雑誌で煮込みの連載を担当しているから
桜もつ煮込みだけは食べておかねばと、
気乗りしないままに所望した。
するとこれが売切れときて、何だか口惜しいような、
それでいてホッとしたような複雑な気持ち。
注文したのは燗酒に桜なべ1人前のみ。
秋深し おのれは鍋で 呑む人ぞ
たまにゃ、こういうのもいいものだ。
手酌で3〜4杯、酒盃(さかずき)を傾けていると
早くも鍋の用意が整った。
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赤身に加えて脂身のタテガミも1切れ
photo by J.C.Okazawa
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都内に古くからあるケトバシ屋は
ずいぶんとその数を減らしてしまった。
残っているのは前述の「中江」と
都内に何軒か展開している「みのや」、
そして入谷と浅草の「三富」くらいのものか。
あとは豊島区・大塚と上野の西郷さんの前に
比較的新しい店ができている。
銀座のソニー通りにも1軒あったな・・・。
銚子がカラになったところで鍋が煮えてきた。
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桜なべはご多分にもれず味噌仕立て
photo by J.C.Okazawa
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もう1本つけてもらっている間に
煮え際の1枚を溶き玉子にくぐらせて口元に運ぶ。
馬肉特有の鉄分を含んだ滋味が舌の上で踊り出す。
牛肉のすき焼きにはけして望めぬ、
人馬一体感が卓上にみなぎり始めたのが判る。
今宵はこれからどうしよう?
【本日の店舗紹介】
「あつみや」
東京都台東区日本堤1-8-4
03-3872-2274
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