「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第931回
ザ・マン・フロム・ストックホルム(その2)

そんな高校生活も無事に終わりを告げた。
J.C.は大学1年のとき、過激派学生による校舎占拠のため、
授業がないのをこれ幸いと、アルバイトに明け暮れる毎日。
しっかりお金を貯め込んで1年後の1971年3月、
横浜から欧州に旅立つ。
この数ヶ月の旅がJ.C.本人だけでなく、
くだんのS水クンの人生に
多大な影響を与えることになろうとは――。

帰国後、バイト先を代えたJ.C.は
ここでまたS水と一緒になる。
フランスやイタリアのすばらしさを聞かされて
彼は俄然、欧州への想いをたぎらせていくのである。
ときに1973年5月。
S水は羽田から欧州へ出発し、
北欧のスウェーデンに落ち着いた。
J.C.もこの年の8月には日本を離れ、
アフリカを回って再び欧州に入る予定。
S水とはその年の11月1日午前11時きっかりに
パリは凱旋門の下で再会を約していたのだ。

エジプト、スーダン、エチオピアと
アフリカ大陸を南下して行き、
ケニアのナイロビに腰を据えて
インド洋に臨むモンバサやラムーの街を訪れた。
アミン将軍率いる開国まもないウガンダや
ニケレレ首相が統治してウガンダと対立していた
タンザニアにも精力的に出掛けたものだ。

そうして迎えた10月末、
ナイロビからロンドンへと飛び発つ。
もちろんS水との約束を果たすためである。
10月31日夜、ヴィクトリア駅から
ドーヴァー、カレーを経てパリへと向かう列車内に
J.C.オカザワの姿を見ることができた。
おっと、この名前を授かる前のことだった。
英仏海峡を渡るとき、
列車はそのままフェリーの腹に吸い込まれ、
乗客はラウンジで一夜を明かすこととなる。

フェリーへの乗り換えで
ドーヴァー駅のプラットフォームを独り歩くJ.C.。
すると、するとである、背後から何やらヘンなわめき声。
おおかた酔っ払いが騒ぎ出したものと思っていたら
どうもその声が「オカザワ! オカザワ!」と
叫んでいるように聞こえてきた。
驚いて振り返るJ.C.の目に飛び込んできたのは何と、
何とである、あのアキレス腱鞘炎のS水であった。

てっきりヤツはストックホルムにいると思っていた。
ヤツはヤツでこちらはモロッコからスペイン経由で
パリ入りするものと思い込んでいたらしい。
「何でお前がイギリスにいるの?」
「何でここで2人が会っちゃうの?」
共通の思いであり、共通の疑問である。
そしてとんでもない偶然であった。

訊けば、英語の習得のために
数ヶ月前からロンドン郊外で下宿を始めたとのこと。
こちらはこちらで東アフリカ放浪中に
幾度もトラブルに遭遇したので
やはり紛争解決に役立つ英語力を養わねばと、
ロンドンに居座るつもりだったのである。

ここで2人は考えた。
どうせイギリスに再入国する身、
あえて渡仏する必要があるやなしやと。
でも2人はまだ若かった。
半年前に契った約束を果たすのは男のロマンじゃないか、
明日の11時には一緒に凱旋門の下に立とうぜ!
そう決断したのである。
そのことが数日後に悲劇を引き起こすとも知らないで――。

             =つづく=

 
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2010年1月28日(木)

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