第936回
四ツ木のお宝「ゑびす」様(その1)
都営浅草線の北の終着駅・押上を通過して
なおも京成電鉄の直通列車に乗って北上すると、
曳舟や立石など大衆酒場の宝庫ともいえる町々を
訪れることができる。
立石の酒場は当コラムでもたびたび紹介した。
その1つ手前が四ツ木という殺風景な駅である。
ラッシュ時には無縁だから定かではないが
乗降客は少なそうだ。
荒川を渡って最初の駅でここから葛飾区になる。
四ツ木の1つ手前が墨田区の八広。
これまたあまり人の気配を感じさせない駅だ。
それでも趣き豊かな大衆酒場が散在しているし、
野球の王貞治さんゆかりの洋食店がある。
永井荷風「濹東綺譚」の舞台となった玉の井も
ここから目と鼻の先、
ゆえにJ.C.はときどきこの駅を利用する。
その日は本所吾妻橋から曳舟を経て向島百花園まで歩いた。
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紅梅は一分咲きといったろころ
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by J.C.Okazawa
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園内では紅梅のつぼみが丸くふくらみ、
咲き急ぐものはすでに花を開かせている。
春は名のみの風の寒さに、行き交う来園客はまばらだ。
明治通りを横断して「抜けられます」の玉の井に回った。
近所の酒場で一杯やろうにも時間があまりに早く、
あと小1時間は歩いていたい気分。
鐘ヶ淵を越えて千住に足を向けようか、
八広から小村井を抜け、亀戸・錦糸町方面を訪ねるか、
思案しながら今来たいろは通りを振り返った。
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西陽に浮かび上がったノスタルジックな光景
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by J.C.Okazawa
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南西を臨み、左側が荷風の描く私娼窟のあった場所。
右手は戦災に焼け残り、昭和21年に再開された地域。
鐘ヶ淵の駅に続く商店街を往復して
水戸街道の交差点まで戻ると「丸好酒場」の暖簾が見えた。
「まだちょいと早いな」――かぶりを振って
行く先を八広に決めたのもつかの間、
すぐに気が変わり、四ツ木橋を渡ることにした。
するとどうしたことか暗雲が空を覆い、
ついさっきまで出ていた夕陽が忽然と消え、
橋上に吹き渡る寒風がすさまじい。
上流で大雨でも降ったのだろう水量も半端でなく、
欄干越しにのぞき見ると怖いくらいで足がすくむ。
身体の芯まで凍えながら、どうにかたどり着いたのは
四ツ木の誇る大衆酒場の名店「ゑびす」である。
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地元で愛される「ゑびす」はこの町の宝
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by J.C.Okazawa
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まともな人間ならここで燗酒だろうが
まともでないJ.C.はかじかむ指に息を吹き掛けて瓶ビール。
震える心身を目の前の品書きが温めてくれる。
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ズラリ並んだつまみの数々
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by J.C.Okazawa
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写真は一部にすぎず、実際はこの3倍近い料理が揃う。
ご覧の通り、かくも良心的な値付けはさすが町のお宝。
皮はぎ刺しもぶり刺しも380円と破格。
どぜう柳川とカキフライの530円だって安いぞ。
鱈白子鍋が1000円で鮟鱇鍋は1300円ときたもんだ。
迷惑千万なくだらぬお通しがないのも好感度大。
迷いに迷って小肌酢と鱈白子煮をお願いしたとき、
大瓶のビールはほとんどカラになっていた。 =つづく=
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