「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第1016回
街には「ルビーの指輪」が流れていた(その1)

20代にそろそろサヨナラを告げる頃、
わが人生において数少ない転機がやって来た。
英国資本のA&P社に就職したのである。
この会社は日本に上陸した初めての外資系マネーブローカー。
何をする会社かというと、外国為替市場での仲介業務だ。
顧客はすべて内外を問わず、銀行のみ。
今では9割以上が電子ブローキングになったが
この頃は各ブローカーが叫び合うボイスブローキング。
メインとなるドル円取引のほかに
ドルマルクやドルポンドも手掛けていた。

オフィスは神谷町の第33森ビルにあった。
午後3時半に後場が引けると、
あとは退社時間の5時まで休憩のようなもの。
備え付けの冷蔵庫にはビールが冷えていたし、
ダーツをしたり、トランプや花札に興じたり、
はたまたパチンコに出掛けたり、
まことに自由奔放な環境に恵まれていた。
これじゃもう、日本の会社にゃ、
2度と勤められないと思ったものだ。

最初の半年間はトレーニー。
それでも給料は悪くなかったから
神谷町・虎ノ門・新橋辺りで毎晩のように飲み歩いた。
当時、お世話になった角打ちや赤提灯のほとんどが
姿を消してしまったのはくれぐれも残念だ。

中でも数少ない生き残り組が新橋の「中川」。
若いサラリーマンがひんぱんに通うには
少々敷居の高い中級和食店だったが
ロンドンからおエライさんが出張してくると、
ここで懇親会を開くのである。
2階の座敷でドンチャンやって
階下の客のひんしゅくを買ったりもしたっけ。

♪ くもり硝子の向こうは風の街
   問わず語りの心が切ないね  ♪

街には寺尾聰の「ルビーの指輪」が流れていた時代である。

「中川」を久しぶりに訪問したのは4月の末のこと。
テレビ朝日での打合せ後だった。
麻布十番の「あべちゃん」に立ち寄ったらあいにくと満席。
十番には独りでフラリと入れる店が少ない。
仕方なく新一の橋を渡り、寂しい裏道をたどって東麻布へ。
ここにも気に染む店がなく、
と言うより、店舗の絶対数が少なすぎる。
うなぎの「野田岩本店」の脇をすり抜け、
飯倉の坂を神谷町に向けて下り、
A&P時代に何度もおジャマした「巴町砂場」に差し掛かる。
時刻は8時ちょっと前。
懐かしさもあって、そば屋酒を決め込んだ。
ところが世の中うまくいかないものですな。
入る寸前に中から現れたオヤジさんが
電光看板の灯りを消すではないか。

再び仕方なく足を向けたのは虎ノ門から新橋方面。
ほどなくして「中川」の店先に到達した次第だ。
六本木ヒルズから新橋まで1時間もさまよったことになる。
当然、ここでも懐かしさがこみ上げた。
迷うことなく暖簾をくぐる。

カウンターに落ち着くと、なぜか目の前にトマトが並んでいる。

置物代わりのつもりだろうか?
photo by J.C.Okazawa

昔は元気のよいお婆ちゃんが差配していたが
あれから30年の月日が流れている。
もちろん店内に彼女の姿はない。

              =つづく=

 
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2010年5月27日(木)

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