第1107回
鯵にも新子があった!
かつて作家・山口瞳は
九段下の「寿司政」で新子を食べないと
私の夏は終わらないとまで言い切った。
言うまでもなく、新子は小肌の幼魚。
出世魚のこのサカナは成長につれて
シンコ→コハダ→ナカズミ→コノシロと
その名前を変えてゆく。
晩夏の新子の美しさ、食味のよさは特筆に価する。
江戸前、愛知、瀬戸内、天草と、
関東以南の各地で水揚げされるが、蝦蛄同様に江戸前が一番。
山口翁ならずとも鮨屋のつけ台に小粋な絣模様を見つけたら
即座に注文しなければ気が休まらない。
いつなんどきほかの客に食べつくされないとも限らないからだ。
ハシリの新子は5尾でやっと1カンがにぎれるほどの小物。
これでは小さ過ぎて小肌本来の風味に乏しく、
新子のにぎりらしさが出るのは3尾で1カンほどのサイズだ。
客のほうはパクパク食うだけだから何の苦労もないが
さばく職人のほうは骨の折れるシゴトだろう。
さぞかし難儀なことと思いきや、
浅草観音裏の「基寿司」のオヤジなんざ、
「新子をおろしているときが一番幸せ」と言ってはばからない。
鮨屋冥利につきるのだそうだ。
世の中には酔狂な鮨職人がいるものである。
ひと月に1度の割合いで立ち寄る本郷の「魚安」。
このサカナ屋の魅力は何といっても光りモノにつきる。
〆鯖は言うに及ばず、鯵、それも小鯵の酢〆が
常備されているのが何よりもありがたい。
どんなに鮮度がよくとも生鯵や生鰯はめったに口にしないのに
酢鯵と酢鰯にはめっぽう目がないのである。
天城産の良質な本わさびが
デパ地下の半値近くで手に入るのもうれしい。
神楽坂から小石川界隈を散歩した帰り道。
夕刻前の明るい時間に訪れると、
見慣れぬサカナが目にとまった。
 |
まごうことなき鯵の新子
photo by J.C.Okazawa
|
通常なら丸ごと油で揚げられて
唐揚げや南蛮漬になる運命の豆鯵である。
鯵にも新子があったのである。
よくぞさばいて酢〆にしてくだすった。
喜び勇んで買い求めたのは言うまでもない。
確かこれで400円だったと思う。
その夜は月刊誌「めしとも」の取材で
北千住の居酒屋「旨すじ本舗」へ出向く手はず。
事前の調査で期待ができないことが明らかになっており、
酒にもつまみにも不完全燃焼が必定だった。
北千住という地の利を活かしてよそに回ってもよいが
我が家ではくだんの鯵の新子が待っている。
しかも新子だけではもの足りないと、
〆鯖まで購入してある周到さだった。
真っ直ぐ帰宅して飲み直すのが賢明であろう。
案の定、取材先は箸にも棒にも引っ掛からなかった。
すでにビールと芋焼酎はそこで飲んでいる。
家の冷蔵庫を開けると、いい塩梅に白ワインが冷えていた。
シャブリ協同組合の手になるシャブリ‘06年だ。
「たとえ白でも鮨や刺身にワインは不向き」――
どこのドイツがほざいた戯言(たわごと)だろうか。
新子の鯵はシャブリと手に手を取って恋の道行き。
速やかに胃の腑へ滑り落ちて行きましたとサ。
【本日の店舗紹介】
「魚安」
東京都文京区本郷6-21-9
03-3811-4037
|