「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第1134回
私鉄沿線(その1)

当コラムを通じて“のみとも”となった友人と一夜、
観音裏に繰り出した。
やって来たのはそれぞれに実業家のお三方。
べつに努めて常日頃から
お大尽ばかりとつき合っているわけではなく、
たまたまそうなっただけのこと。
メンバーは春日部のHクン、仙台のR子サン、
そして遠来のマニラからH澤サンである。

まずは「正直ビヤホール」でサッポロの生を2杯。
その後、「ニュー王将」で刺盛りや牡蠣バタ焼きや
メンチカツやハムカツサンドを食べたあと、
近所のスナック「N」に向かうも、当夜は貸切で入れず。
それではと、田原町の「B1」まで夜の浅草を縦断する。

みなさんそこそこにカラオケ好きで中でも在マニラは筆頭格。
この店で夜中の大トリとしてクールファイブの3連発を歌い、
翌日、知人のお嬢さんの結婚披露宴に列席したら
隣りに前川清が居たという、ウソみたいな体験の持ち主である。
宴たけなわとなってマイクを握ったMr.マニラが歌ったのは
野口五郎の「私鉄沿線」。
何でも歌いこなす彼だが、この曲との相性は殊更けっこうだ。
聴きながらさまざまな思い出が頭の中をよぎったこともあり、
印象に残る歌唱であった。

「私鉄沿線」が流行っていた1975年。
ロンドンから帰国して棲みついたのは東武東上線・成増。
今も散歩でときどき立ち寄る町ながら
転出後にここで飲んだことは1度もない。
質のよい居酒屋が見つかるとも思えないけど、
近いうちにまた訪ねて徘徊してみよう。

翌‘76年には新京成線・上本郷に引っ越した。
このとき街に流れていたのは西島三重子の「池上線」。
誰しも青春の一コマに「私鉄沿線」や「池上線」の恋人たちと
自分たちを重ね合わせることのできる時期があったろう。
上本郷は松戸から1つ目の、それこそ何もない駅である。
シンガポールに赴任するまでの7年間をここで過ごした。
昨今は八柱霊園の墓参の帰りに通過することがあっても
成増と同様に飲む機会はまったくない。
足繁く通ったスナック「ジョイフル」も小料理屋「あかね」も
とっくの昔に店をたたんでしまった。

マニラのH澤サンが歌った「私鉄沿線」のおかげで
懐かしくなったこともあり、先の週末に上本郷を訪れた。
1本だけしかない、それも寂れた駅前商店街をブラリゆく。
1つ目の角で中華屋「大八北珍」が営業を続けていた。
この店が開業したのは1977〜8年だったと思う。
商店街からちょいと入ったところにあったが
最近、オモテに移転したようだ。

「よし、ここに決めた!」――決めてはみたものの、
開店の17時には40分もあり、
それまで商店街裏手の住宅街を散策する。
界隈の家々の庭には枝もたわわに果実をつけた木々が目立つ。
もともとは農家の人々が住人となっているのかもしれない。
ざくろ・みかん・夏みかん・柚子、
通行人に「ご自由にお持ちください!」と言わんばかり。
つい誘われて明るいうちからヤバいと思いつつも、
1軒の民家の、道路にせり出した枝から、
小柚子を2つばかり失敬してきた。

その柚子の果皮を3片、ペティナイフで削り、
アイスティーに浮かべて楽しみながら
今、この原稿を書いている。
う〜ん、実によい香りだ。

               =つづく=


←前回記事へ

2010年11月9日(火)

次回記事へ→
過去記事へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ