第1152回
星のおそば屋様(その3)
ミシュランの星付きそば屋めぐりも最後の1軒となった。
賛否両論、毀誉褒貶が渦巻く「翁」である。
あらかじめお断りしておくが
この店を普通のおそば屋さんと思い込んで出掛けてはならない。
そば割烹とでも名付けようか、
掛かる予算は他店の7倍、要する時間は3倍と心得ておきたい。
有名店につき、読者のみなさんにおかれては
先刻ご承知であろうとも老婆心ながら一応お伝えしておく。
地下への階段を降りてゆくと、
早くも店先には日本そば店らしからぬ気配が漂っている。
今どき下駄を履く男も少なかろうが
それこそ風呂帰りに下駄をつっかけ、
気楽に引き戸をガラガラというわけにはまいらない。
高級日本料理店といった風情である。
カウンターでもテーブルでもお好きなほうをと店主に促され、
迷うことなくカウンターへ。
普通のそば屋にカウンターなどまずないから
設いからしてすでにそば屋のものではない。
悪事を働く際に一味と密談、
あるいはワケあり女と色恋沙汰のもつれでもない限り
(最近トンとこういうのがなくなったなァ……しんみり)、
テーブル席ではなく、カウンターを選ぶのが常。
皮切りのビールは中瓶・小瓶ともにエビスだけだ。
恵比寿という場所柄、想定の範囲内で別に失望はしない。
おまかせコースは1万5千円からで
もちろん最安の1万5千円をお願いした。
初っ端から面妖な小鉢が現れ、虚を衝かれる。
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見た目では何だか断定しかねる
photo by J.C.Okazawa
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1本、口にして判明した。
これは白菜の芯である。
中華料理の前菜の甘辛い辣白菜そっくりの食感だ。
美味ではあるけれど、いきなり白菜の芯ってのもなァ。
エビスに失望はせずとも、芯チャンにいささか落胆。
お次は今(訪問時)が旬の新いくらだ。
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出汁を張り、柚子を当たった新いくら
photo by J.C.Okazawa
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皮膜が薄く柔らかく、この時期のいくらはまさに新物、
不味いわけがない。
芯チャンを新チャンがカバーしてくれた。
第三の男ならぬ、第三の皿は焼き銀杏。
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イチョウじゃないよ、ギンナンだよ
photo by J.C.Okazawa
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下に敷いてある淡いピンクの塩はヒマラヤの岩塩だ。
お気づきのようにここまでの料理には
料理人の手がほとんど加えられていない。
素材の持ち味をそのまま素直にぶつけてきているだけ。
それでも口福を運んで来るのだから
シンプリー・テイスティとはこのことだ。
ここで日本酒に切り替え、八重垣の純米をぬる燗で。
八重垣は姫路の酒である。
すると時を合わせたように奥から女将さんが現れた。
聞けば女将が店主で包丁を預かる料理人は女将の娘の旦那さん。
実は娘さん夫婦はすでに離婚してしまい、
店には婿どののほうがが残ったとのこと。
娘のほうは出奔(しゅっぽん)したわけではなかろうが
別のところで別の人生を送っているのだという。
ほかに客がいないこともあり、
女将を中心にハナシの輪が拡がった。
=つづく=
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