「一歩一歩、おいしさを探して」
J.C.オカザワの脚で綴ったダイアリー

第1181回
高峰秀子の思い出(その1)

高峰秀子がとうとう逝ってしまった。
年齢が年齢だけに覚悟していたものの、とても哀しい。
1979年の「衝動殺人 息子よ」(若山富三郎がよかった)を
最後にスクリーンからずっと遠ざかったままで
いきなり届いたのは突然の訃報であった。

坂本冬美の「夜桜お七」に
 ♪ いつまで待っても来ぬ人と
   死んだひととは おなじこと ♪
        (作詞:林あまり)

という歌詞がある。
この心持ち、実によく判る。
高峰秀子は
 ♪ いつまで待っても出ぬ女優と
   死んだ女優とは おなじこと ♪
であり続けた。
少なくともJ.C.の心の内ではそうであった。

彼女の映画は名画座の特集やビデオ&DVDで
さんざっぱら観たがすべて遠い過去の高峰秀子である。
せめて60代の演技にふれたかったけれど、
55歳での引退は心に決めた彼女なりの美意識だったろう。
身長153センチメートル。
あんなに小さな身体で20世紀の邦画界を代表する大女優。
本人が告白する通り、
よき時代に生まれ、よき監督に恵まれたのだ。

数々の名監督と仕事をしてきた彼女の足跡を振り返ると
木下惠介、成瀬巳喜男の両巨匠が
きわめて重要な存在だったことが明らかになる。
木下作品では「二十四の瞳」、「遠い雲」が好きだが
「二十四の瞳」は大石先生役さえミスキャストでなければ
誰が演じてもそれなりの感動を与えてくれただろう。
思うに木下とは雰囲気を異にする成瀬映画のほうにこそ、
女優・高峰秀子の特質がより顕著に表れたのではないか。

大傑作「流れる」にしても
あれは山田五十鈴・田中絹代を筆頭に
女優版オールスターキャストの映画。
評価のもっとも高い「浮雲」は
終始、陰気な森雅之の仏頂面とつき合わねばならず、
観ているものを疲れさせる。
久我美子との「挽歌」もそうだが、どうも森雅之は苦手だ。
黒澤の「羅生門」が一世一代の適役ではなかったろうか。

どれか1本選べば、成瀬の「乱れる」に落ち着く。
若き日の加山雄三が相手役の少々クサいメロドラマ。
“愛されることにうろたえる”義姉役が白眉中の白眉で
真っ直ぐな義弟の愛情をもてあます姿に
今は絶滅せし古き日本女性のよすがを偲ぶことができる。
こんなふうに書くと、
「フン、時代錯誤のアナクロ男め!」なんて
現代の若い女性に軽蔑されるだろうが
そんなことは知っちゃあいない。

まことに唐突ながら
オトコには棄てることのできるオンナと
棄てられないオンナがあり、
秀子演ずるところの多くの女性は
オトコに棄てられないタイプのオンナなのですよ。
女の一生にとってこれは計り知れなく大きい。
不幸に見舞われるリスクが激減するということは
その人のシアワセな人生が半ば保証されたも同然。
男運のない女性とはそうでない女たちを指す。
(また叱られるかな?)

明日は映画界引退後、数多く残したエッセイを通じて
高峰秀子の本質に迫ってみようと思います。

            =つづく=


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2011年1月13日(木)

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