第52回
組織ケーエイ学22: マナーは知識である。

東京では、エスカレーターに乗るときは左側に立ち、急ぐ人のために右側をあけておくことになっている。
このマナーは比較的新しく、おそらくここ10年くらいの間に形成されたものだ。15年まえには、なかった習慣である。

なぜそうはっきり覚えているかといえば、27才のとき(つまり13年前)ソ連を旅行したのだが、このときモスクワの地下鉄で、二人連れの人もふくめて、人々が左側に立ち、右をあけているのを見て感心して、日記に書いたことがあるからだ。
人に聞いてみると、ヨーロッパでは当たり前のマナーだということであった。
この時ぼくが知ったことは、マナーとは単に知識であり、心の持ち方など倫理的なものとは違うということだ。

むかし、おせっかいなアナウンサーがいて、全国民に「気くばり」をすすめていたことを覚えている。いまも一般に、マナーは、他人に対する気くばりや配慮、想像力、つまり心のありようであると信じられている。
このような考え方は「お年寄り」に特有な、ある種の精神論であるとぼくは思っている。くだんのアナウンサーなどは、旧世代の代表格にみえたものだ(いい人なのだが)。

エスカレーターの乗り方にもどれば、15年前の東京よりも現在の方が、人々の気くばりとか倫理観が向上したわけではない。ただ、その方が便利だ、ということを知ったにすぎない。

単に知識として扱えばよいものを、精神論とか倫理でもって語るのは、あまり合理的でない。というか、若い人には受け入れられないものだと思う。
これは、リーダーシップを考えるうえで、心にとめておいてよいことのように思われる。単に知らせればよいだけのことを、倫理をからめてお説教したがる「お年寄り」に、ときどき出会う。

ところで、このエスカレーターのマナーは、まだ北海道には普及していない。
空港などで、右側にたまるおばちゃんや二人づれに引っかかるたびに、「この田舎もん!」とキタナイ言葉が、頭のなかを繰りかえし駆けめぐる。
知識はあっても、ぼくの心は荒れていた、わけだ。


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