第66回
ブランドケーエイ学24: 違いに価値あり。

「知識は価値である」と一般に考えられている。
ほんとのところは、「知識の差」が価値である。誰もが知っていることならば、知識などは価値でもなんでもない。人が知らないことだから、価値がある。
「学校の教育が役立たない」というのは、ひとつにはこの真理があって、役に立たないわけでもないけれども、誰もが知っていることなので、もはや経済的な価値がない、ということもあるかと思う。

ぼくのやってる分野でいうと、デザインはアートではない。無から有を創る、世の中にないものを創る。そういうことは芸術家に任せておけばよいもので、デザインとは、あちらのものをこちらにもってくる、応用技術である。
すぐれたデザイナーとは、発想や感性のすぐれたクリエーターという面はあるけれど、基本的にはより進んだもの、優れたものを「知っている」ということが非常に重要だ。
2流のクリエーターは1流のクリエーターの作品に学ぶ。
では1流のクリエーターは、何に学ぶのだろうか。それを見つけた人は、1流にならぶ可能性がある。

まじめな人は、あまり勉強しすぎると、独創性が失われる傾向がある。
それも結局のところ、勉強の仕方がわるいのではないか。いまでは、まじめなだけでは価値を生めない。結局だれもが、どっかから引用し参照しているわけだが、すぐれた人は参照元が違う。1番手のマネをしている限り、2番手は1番手になれない。1番手は違うものを見ている。

外国へ旅行に行って帰ってくると、とたんに日本を批判したくなる気持ちになったことがないだろうか?
ああ日本はなんてキタナイんだ、子ども文化なんだ、なんでこんなゴチャゴチャしてるんだ。でもまあ、そこをこう考える。こんな日本だから自分にも仕事がある。こんな日本だから、ぼくらが差異を生める。

価値とは差異である。同じであること、追いつくことを目的にしていた時代は、とっくに終わった。それなのに、隣の机をみて、答案を書く人のなんと多いことか。ぼくらにはまだまだ伸びしろがある。そう信じる理由は、この辺にある。


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