五、金を想うがごとく友を想う

安岡章太郎氏がはじめて私の家に見えたのは、我が家の記録によると、昭和ニ十九年十ニ月二十九日になっている。
その日、お見えになった人は、檀一雄さん、坪井興さん、当時、ラジオビデオ・ホールという日本ではじめてのラジオ公開ホールをつくった小谷正一さん、小谷さんの子分で、『キー』という団地新聞の社長になった筒井健司郎さん、文芸評論家の浅見淵さん、『文藝春秋』記者の薄井恭一さん、私の小説の活字化に最初に力をかしてくれた小説家の西川満さん、それに安岡章太郎さんというメンバーになっている。

この顔ぶれから見ると、私の『濁水渓』という第一冊目の単行本が出た直後のことで、檀さんが自分の友人たちを私に紹介するのもかねて、私の家へ友人をつれて、大挙して押しよせたのではないかと思う。薄井恭一さんは、私の東大時代の同級生で、バレーダンサーになった変わりダネ、薄井憲二の長兄で、弟から紹介されて知りあいになり、たまたま食味雑誌『あまカラ』の編集にかかわりあっていたので、私に「食は広州に在り」の執筆をすすめて、私がこの方面の本を書くきっかけをつくってくれた人である。薄井さんと西川さんは、檀さんやその友人たちとはお互いに面識がなかったが、私の家ではじめて顔をあわせたのである。

私の処女出版の本ができてきたとき、私は檀さんの忠告に従って、檀さんの教えてくれた小説家や批評家あてに、いちいち署名をして送付した。そのとき、檀さんは、「この本を見て真っ先に賞めてくれるのは、きっと林房雄だろうね」といった。私にはその意味がわかりかねたが、本を送って何日かたったある日、郵便受けを覗くと、毛筆で書いたハガキが入っており、それに、林房雄と署名がしてあった。裏をひっくりかえしてみると、
「本を有難う。いまの小説家より一歩だけ先を行くよい作品です」
という意味の賞め言葉が記されていた。林房雄さんは、戦前、「獄中記」を書いてマルクス主義から転向したというので、左翼の人たちから変な目で見られてきた人であるが、当時は、『小説新潮』や『オール読物』に盛んにいわゆる中間小説を書き、舞台にも上演されて、なかなか人気のある流行作家であった。と同時に、『東京新聞』の文化欄で、匿名で文芸批評をやっており、歯切れがよくて、木端微塵なやっつけ方をするので、一部の人たちからは恐れられていた。その人が賞めてくれたのだから、私は意を強くしたが、その半面、新人の作品をこんなに早く、こんなに丹念に読んでくれるなんて、この人はなんという勉強家だろうと、本当に感心した。五、六年のちに、私は鎌倉にある林さんの家を訪問したことがあるが、頭の回転の早い分を言葉に出すのがもどかしいような、せっかちな人で、三島由紀夫さんの才能をいち早く認めたのも同氏であり、また「潮騒」以後の三島氏の小説に批判的になり、その行き詰まりを予言したのも同氏であった。

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