安岡章太郎氏は、檀さんと同じく佐藤春夫先生を師と仰いでいたので、おとうと弟子のような間柄であったが、当時、田園調布の私の家の近くに住んでいた。申し遅れたが、九品仏の家賃一万六千円の貸家に約六ヶ月住んだ私は、東京在往も長びきそうだし、いつまでも家賃を払っているのもバカらしいと思ったので、多摩川べりの三菱病院の隣に、敷地約三十坪、リビングキッチンに六畳間が二つだけの小さな一戸建ちの家を九十五万円で買って、移り住んだばかりであった。檀さんにいわれて『濁水渓』を送ったら、すぐハガキがきて、「近くに往んでいるから、そばを通りかかったときは声をかけて下さい」と書いてあったので、私の方が食事にさそったような気がする。
当夜のメニューを見ると、料理は前回と半分くらい変わっていて、菜色羹(カリフラワーのスープ)、燉元蹄(揚げ豚肉の丸蒸し)、麻油牛肉(牛肉の胡麻油炒め)、云茸炒鶏汁(鶏もつのきくらげ炒め)、鼓汁排骨(豚あばら肉の浜納豆蒸し)、当帰鴨湯(家鴨の当帰入りスープ)、蓮子百合湯(蓮子の実の甘いスープ)などが新しく顔を出している。十一月十日に、うちの長男の世悦が自由ヶ丘の桜井病院というところで誕生し、その直後に新しい家に引越しをしたから、女房は産後まだ五十日たったばかりであり、彼女自身も、胡麻油や当帰のような、産後食に親しんでいたので、私がメニューをつくるとき、つい「補食」料理が中心になったのかもしれない。しかし、年の暮れといえば、東京は既に寒い風の吹く季節であり、身体の温まる料理は皆にたいへん喜ばれた。
以来、安岡さんは我が家のお客の常連の一人となり、私は彼の書いた『良友・悪友』のなかに「金を想うごとく友を想う 邱永漢」として登場することに相成ってしまった。小説家は、筆の勢いに任せて誇張した書き方をするから、そのまま鵜呑みにすると、いっぱいくらわされてしまうが、彼の文章の一部を引用すると次のようなことになる。


―― 邱永漢が我が家へあらわれるようになったのは、昭和三十年の二月か、三月、「濁水渓」という戦中・戦後の台湾人の苦悩を訴えた小説を送ってくれてからで、私はその小説に台湾人というより自分と同世代の人間に共通の或る性格を感じ、家も近くだからヒマなときに傍を通りかかったら、声を掛けてくれと、礼にかえてハガキを出した。すると、それから何日もたたないうちに、派手な薄茶の格子縞か、何かの外套を着た男が、
「わたし、邱ですが」
と、通りに面した窓の向うに、馬鹿にツヤツヤと血色のいい顔を覗かした。私はしばし、戸惑った……。「濁水渓」は戦時中、日本軍部に弾圧され、憲兵に追いまわされながら生きてきた台湾の青年が、戦後になると大陸から渡ってきた蒋政権の役人に反国民政府的革命分子であると戦争中にまさる圧迫をうけ、ついに国籍を放棄してユダヤ人のごとく国外を放浪せざるを得なくなるというものだが、私はその主人公の青年から、背が高く、頬がこけて、黒い頭髪のモシャモシャした、何となく堀田善衛氏に似た風貌の人物を想像していた。しかるに眼のまえに立っているのは、いかにも栄養のよさそうな、広い額のピカピカした、ソロバンのうまそうな青年だった。

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