さて、私がメシで釣って文壇に乗り出す作戦であった、と安岡さんの『良友・悪友』に書かれているのを読んで、私は思わず吹き出してしまった。選挙にも「饗応の禁止」というのがあって、選挙運動の期間中、有権者をご馳走してはいけないことになっている。それは人間はご馳走に弱いということを示すものであるが、芥川賞、直木賞の選考委員をご馳走攻めにしてはいけないという規定がないところをみると、芥川賞、直木賞の委員たちは、酒食に心を動かされない鉄の意思をもっている人たちであるか、たとえ酒食で買収して文壇に乗り出すことができたとしても、実力がなければ、あとがつづかないということであろう。

ただ残念なことに、私の作品は、いったい、芥川賞の対象になるのか、直木賞の対象になるのか、皆目わからず、候補作品発表の段階になってやっと直木賞だということがわかった。だから饗応で買収したいと思っても、佐藤春夫先生も井上靖さんも、芥川賞の選考委員である。まさかお隣の直木賞の座敷に出張してもらって、私のために一席弁じていただくわけにもいかない。多分、そのためであろう。せっかく、候補にのぼったのに、その期は、梅崎春生氏の「ボロ家の春秋」と戸川幸夫氏の「高安犬物語」が入賞し、私は物の見事に藩選してしまった。私は小学校から大学までいっぺんも落第した経験がなく、自分の思う通りにならなかったのはこのときがはじめてだったので、かなり打撃を受けた。しかし、苦節十年二十年という文学青年の多いこの世界で、小説を書きはじめてすぐに直木賞の候補に擬せられたのだから、これだけでも幸運と思うべきであろう。私は落選にもめげず、その翌日から、すぐにも創作に取りかかり、つぎつぎと小説を書いた。多少、ジャーナリズムのこともわかりかけ、雑誌の編集者たちとも面識があるようになったので、私は自分で原稿を『文学界』『新潮』『群像』などに持ち込んだ。しかし、これらの雑誌の新人に対する扉は依然として堅く、わずかに『文学界』の編集長であった尾関栄さんだけが私に理解を示してくれ、同誌に「検察官」という百枚の小説を掲載してくれた。私はこの小説が次期の候補作になることをひそかに期待したが、残念ながら候補作の中にすら入れてもらえなかった。すっかり落胆した私は、もう小説書きはやめようかとさえ思ったが、その期の直木賞は「該当作ナシ」になり、選後評のなかで、木々高太郎氏が「どうして邱永漢が出て来ないのか」と書いてあるのを見て、私は「期待してくれる人もいるんだな」とにわかに勇気づけられ、気をとりなおして「香港」という、自分の香港滞在中の見聞をもとにした二百四十枚の長篇小説を一気に書きあげた。この小説が第三十四回の直木賞に当選し、私は東京へ来てから二年足らずで、どうやらプロの小説家の仲間に入れてもらえるようになった。

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