さて、『東京いい店うまい店』の五人の常連執筆陣の一人に、薄井恭一さんという人がいる。薄井さんは前にもちょっとふれたが、私の東大経済学部時代の同級生薄井憲二君の兄さんで、私が小説家になろうとして香港から東京へ出てきたときは、『文藝春秋』の編集者をしていた。この薄井さんはたいへん世話好きな人で、あるとき、私の家に食事に招待したところ、「邱さんが料理にこんなに詳しいとは知りませんでした。大阪に鶴屋八幡という和菓子屋がスポンサーになって発行している『あまカラ』という食味雑誌がありますが、ひとつあそこでシナ料理の話を連載しませんか?」
と誘いをかけてくれた。

まだ『文学界』も『新潮』もロクに相手にもなってくれなかった頃のことであるから、いきなり連載とは、いかにも有難い話であった。すぐに話に乗って書きはじめたのが「食は広州に在り」であり、それが予想外に好事家たちに気に入られたので、「象牙の箸」「食前食後」と同じ雑誌に十年間も食べ物のエッセイを書くことになり、気がついて見たら、私は「料理の大センセイ」「大食通」ということになってしまっていた。とりわけ『文藝春秋』で「食通知ったかぶり」という連載を書いた丸谷才一氏がその中で戦後書かれた食べ物に関する三大名著の一つとして私の『食は広州に在り』を推奨したので、私の一連の食べ物随筆は、突如としてロングセラーズの仲間入りをし、洛陽の紙価を高からしめるほどではないが、一回の再版が二万冊、三万冊といった売れ行書を示すようになった。もともとは原稿料代わりに、鶴屋八幡の羊羹をもらう非商業的な小雑誌に面白半分に書いた食べ物の話にすぎなかったのが、時代の移り変わりで、逆に私の方が飯を食わせてもらえるようになったのだから、まったく世の中というものは想いもよらないことがおこるものである。

それはもっとずっと後のことであるが、その薄井さんが同じ『あまカラ』誌で「食いしん坊」という連載をされて評判になっていた小島政二郎ご夫妻を誘って私の家へ食事に見えることになった。

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