新しく買った家とはいえ、敷地がわずか三十坪に十五坪くらいの建物だから、食事をするといっても、八畳くらいのリビング・キッチンにテーブルをおき、出窓に突き出したソファに三人は坐ってもらわないと、十人の来客の尻がおさまらない。カーテンをひいて、その向こうでは、うちの女房が料理をやっているのだから、考えてみると、よくぞこんなあばら家に天下の名士たちを招待したものである。招待する方も招待する方だが、気軽に来てくれる方も来てくれる方である。

やはり私が『あまカラ』誌に書いた「食は広州に在り」の魔術にだまされたといってよいかもしれない。

白井喬二といえば『富士に立つ影』という大長篇で、戦前は大いに名を轟かせた方であるが、戦後は既に第一線から半分以上、退いておられた。その白井先生は、私の顔を見ると、すぐにこういった。
「君の小説を読みましたが、小説というものはピンと弓を張ったように、はじめから終わりまで緊張しどおしの書き方ではいけません。ところどころ遊びがあって、息をつくところがあると、ピンと張ったところが生きてくるのです。もう少し遊びのところをうまく書くと、グンとよくなりますよ」
そのときは、ハア、ハアとかしこまってきいていたが、本当のところ、何のことだか、さっぱりわからなかった。しかし、何十年かたって、その頃書いた「濁水渓」とか「香港」とかいった作品を読みかえしてみると、ひたむきに走りつづけるような感じで、若さと情熱に溢れているが、読んでいるうちにだんだん息苦しくなってくる。なるほどこのことだな、とこの年になってやっと理解できるようになった。

また子母沢先生も、同じ『あまカラ』誌にときどき執筆されておられたが、昔、新聞記者をおやりになっていた頃、『聞き書き味覚極楽』という食べ物の名著を書いておられる。これは役者だとか政治家だとか実業家だとか、当時の名士を訪ねて、食べ物について喋ってもらったのをルポ風に再現したものであるが、登場する人物をホーフツとさせるばかりでなく、食べ物のことが目の前に浮かびあがってくるような、素晴らしい作品である。

子母沢先生は、食事の席上では、ごく世間並みの話しかされなかったが、二ヵ月たって私が直木賞を受賞すると、薄井恭一さんを通じて、私にお祝いの言葉を送って下さった。そのついでに、
「作家というものは、個人の才能にたよる職業ですから、いかなる団体にも所属しないことが大切です。一人で生きていく修行をして下さい」
とアドバイスきれた。私は、文章の書き方については、とうとう誰からも深刻な影響は受けなかったが、先生のアドバイスはいまもはっきり脳裏に刻み込まれている。

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