十一、梅崎春生のメスの羊

梅崎春生さんが多摩川べりの私のアバラ家へ奥様連れでお見えになったのは、昭和三十二年三月二十二日のことである。私がはじめて「濁水渓」という小説で直木賞の候補になった昭和三十年の春に、梅崎さんは「ボロ家の春秋」という小説で一足先に直木賞を受賞した。梅崎さんは既に「桜島」という佳作を書いて文壇に地位を築いていたし、作家としての力量も並はずれていたから、梅崎さんが当選して、私が落とされたことに私は何の不満も抱かなかった。

まず梅崎さんは稀に見る頭脳の冴えた人だった。その分だけ神経がデリケートにできていたから、一歩間違えたら、精神異常になるような人ではないかと私は思っていた。その梅崎さんが何かの会合で私に会ったとき、自分は邱さんが『あまカラ』誌に執筆している「食は広州に在り」を愛読していますよ、といった。
「あなたの書いていることに少し文句があるんです。あなたはおでんのダシが昆布や鰹節だけじゃ物足りない、豚の骨や鶏のガラで試してみたらどうか、と書いていたでしょう。でも、おでんは豚の骨や鶏のガラのダシでは絶対に駄目です。僕は絶対に反対だね」
梅崎さんも檀一雄さんに似て、片時も酒杯を手からはなさない人であったから、酔っぱらった勢いに任せて、私につっかかったのであろう。でも私は梅崎さんの文章には敬意を払っていたし、おでんと日本酒のよく似合う文士気質の人だと思っていたので、
「うちにいっぺん、飯を食べにいらっしゃいませんか?」
と誘った。そうしたら、梅崎さんはたいへん喜んで、ぜひ伺いますといった。

梅崎さんは頭のよい人であったが、書いたものを見ると、自分の身辺のことや体験した事実をもとにしたものが多かった。いわゆるストーリーテラー的な小説家ではなかった。だから、私はこの人は、小説などというスタイルでなく、チャールス・ラムやモンテーニュのように、エッセイストとしてのジャンルで活躍すれば、すぐれた作品を残す人ではないかと思った。同じことを、私はのちに安岡章太郎さんにも面と向かっていったことがあるが、梅崎さんの文章は非常にキメの細かいものだったから、いっそうその感が深かった。もし文章を日本料理か、中華料理か、それとも西洋料理か、といった分類の仕方で分類するとすれば、梅崎さんの文章はさしずめ日本料理であろう。はじめて小説を書く人が、小説家として認めてもらうには、材料の生きのよさで人をひきつけるにこしたことはなく、材料七分、腕三分くらいでやれば欠点がかくれて成功する確率が高いときいたことがある。中華料理は、大体、材料三分の腕七分だが、日本料理は材料七分の腕三分くらいですかね、といったら、井上靖さんから、いや、日本料理は材料九分の腕一分ですよ、と訂正されたことがあった。実はそれくらい日本料理は材料の吟味が料理の出来映えを左右するわけだが、あるとき、文藝春秋の池島信平さんと料理の話をしていて、梅崎さんの作品のことに及んだら、
「あの人は、日本料理の板前にたとえたら、稀に見る名板前ですよ。なんでもない材料をつかって、あれだけ読ませるんだから、腕九分でしょう」
と池島さんはすぐに応じた。私は池島さんは名編集長と謳われる人だけあって、一人一人の物書きとその作品について、実によく観察しているなあ、と感心したことがある。

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