十二、"邱飯店"の名付親・池島信平

私の家のパーティに"邱飯店"という名前をつけたのは、文藝春秋の池島信平さんであるが、池島さんが実際に私の家へ来られたのは、昭和三十二年四月十五日になってからであった。
芥川賞も直木賞も、文藝春秋がはじめた文学賞であり、私が直木賞をもらったのは、三十一年の一月の末であるから、池島さんにお会いしたのは、多分、それよりは少し前ではなかったかと思う。
「小説家志望の田舎の青年が自転車に乗ってよくたずねてきてね、原稿を見てくれというものだから、君、どんな作家の作品を読んでるかねときいたら、菊池寛作に、里見淳作です、といったりするんだよ。おかしくて笑い出したくなるけれど、純朴愛すべきところがあるから、しっかり頑張りなさい、と鼓舞激励してかえすんですよ」
そういうエピソードを書かされたのは、文藝春秋がまだ銀座みゆき通りにある、いまの別館に本社をかまえていた頃ではなかったかと思う。その後、社屋を西銀座八丁目に移し、私の直木賞受賞が決定したときは、八丁目の本社から、すぐおいで乞う、という電報が多摩川べりの私のところへ届いた。
私が喜び勇んで出かけて行くと、池島信平さんが応接に出てきて、最初にきいたことは、
「邱さん、あなたの小説に出てくる主人公は、あなた自身がモデルですか?」
受賞作になった私の「香港」という小説は、政治的な事情で台湾から香港に亡命した主人公が、生計の費を得るために、露店商をやったり、伊勢海老とりをやったりしたが、どれもこれもうまくいかず、一番最後に、カサブランカに輸出する茶の葉に石ころをまぜて香港ドル百万ドルをだましとって日本へ逃げるというストーリーであった。経済小説のハシリみたいなものだから、当時としてはかなり新鮮さがあったのであろう。池島さんは、自分もこの小説がいいといって極力推薦したんですよといい、同時に、ミーハー的好奇心もあったのであろう、私自身をモデルにしたのか、ときいたのである。それに対して、私はすかさず、
「もし私に、百万ドルだまして逃げるだけの勇気と才覚があったら、小説家なんかになっていませんよ」
と答えた。すると池島さんはニコニコ笑いながら、
「それもそうだね」
と頷いた。

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