まさか同病相憐れむ気持から私に関心を払ってくれたのではないと思うが、池島さんは受賞後の私にすぐ「日本天国論」を書かせてくれただけでなく、私がどういう方向に向かって走り出すのか、ジッと注目してくれていた。おそらく自分がそういう目で見られていると思ったのは私一人ではあるまいが、誰にもそう思わせるところが大編集者たるユエンかもしれない。しかし、受賞後の私の執筆活動は必ずしも順調ではなかった。私の書くものは、香港や台湾のことが多かったし、檀一雄さんの予言したように、日本的義理人情にしか興味をもっていない編集者たちが食指を動かす対象ではなかったので、私のところへはほとんど原稿の注文がこなかった。私は時間をもてあまし、古典の勉強をして「私の論語」という百枚ばかりの原稿を書いて、あちこちの雑誌に売り込みに行ったが、どこの雑誌にも断られた。やむを得ず再び『大衆文芸』誌に載せてもらった。ああいう同人雑誌を多忙をきわめる『文藝春秋』の編集長がいちいち目を通すとはとても信じられないが、その文章がすぐ池島さんの目にとまり、池島さんは私に「私の韓非子」を注文した。もともと私は韓非を中国の思想家の中でも最も近代的な法思想の持主だと思っていたし、いっぺん、そのことを書こうと考えていたので、すぐに承知したが、その際に池島さんは、
「邱さんは編集者のことを怒っていますね」
といった。
「そうでしょうかね?」私は生半可な返事をしたが、池島さんはずいぶんいろんな角度から文章を読む人だな、と感心した。「私の論語」の中で、私は諸国の王侯たちから容れられない孔子を原稿の売れない小説家にたとえて書いたが、池島さんはこのたとえのなかに、私の怒りを感じとったのである。「私の韓非子」は三十枚ほどの短い文章で、『文藝春秋』に載ったが、私はそれを百枚の原稿に書きなおして、『日本読書新聞』に連載した。つづけて「私の荘子」百枚を書いて、講談社から一冊の単行本として出版した。「私の荘子」をどこの雑誌にも売り込みに行かなかったのは、荘子その人が自分の売り込みに行かなかったばかりでなく、宰相になってもらいたいと頼みにきた王侯たちに門前払いをくらわせた気骨の士だったことにならったからである。
その後、私は『文藝春秋』や『オール読物』や『文学界』など、文藝春秋の雑誌から次第に遠のき、中央公論社発行の雑誌で執筆するように変わったが、個人的には池島信平さんと相変わらず往き来をし、しばしば私の家にも食事にきていただいた。そういう関係があったので、池島信平雑誌記者二十五周年の記念パーティにもご招待を受けた。行ってみると、盛大な会ではあったが、私より年齢的にひとまわり以上も上の著名な作家や社長たちばかりで、私と同年輩の作家たちは一人も見えていなかった。やはり私は特別扱いだったのだな、とそのとき、はじめてわかった。

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