嶋中さんが私の家に、『中央公論』の編集者ともども見えたのは、「台湾人を忘れるな」の翌月、即ち「サムライ日本」の第一回連載が『中央公論』に載った当日である。中央公論社は、深沢七郎とか庄司薫とかいった立派な作家も世に送り出しているが、それ以上に社員の中から作家たちを輩出させている。当日のメニューにはのちに直木賞をもらった綱淵謙錠氏の名前も見えているし、その次の十月十八日には、女性ではじめて『婦人公論』の編集長になった三枝佐枝子さん、いま鉄道旅行のルポ作家として活躍をしている宮脇俊三さんの名前もある。私の原稿の担当をしてくれた人たちが編集局長になったり、有名作家になったりしたのだから、気がついたら、こちらもいい加減な年齢になってしまっていたとしても不思議ではない。
中央公論社とは、その後、ぷっつりと仕事の関係が途絶え、約十五年間もブランクの時期があったが、嶋中さんとはずっと個人的には往き来があって、私にとっては終始、よきアドバイザーであった。
私にお金の話を最初に書かせたのも嶋中さんだし、私に「日本料理は滅亡する」という文章を書かせたのも嶋中さんであった。私の家で食事をしているおりに、私が「日本料理は高すぎて、お金はあるが食欲のあまりないお年寄りと、外国からの観光客の食べるものになってしまった」と話したことがヒントになったのであろう。おかげで私は金田中をはじめ、一流料理屋のオヤジさんたちから総スカンを食わされるような目にあった。

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