話は前後するが、『あまカラ』誌の常連執筆者の中には、福島慶子さんとか、戸塚文子さんとか、吉田健一さんとかいった人たちがいた。いずれも我が家の料理を食べてもらったことがあるが、なかでも吉田健一さんは当時の総理大臣吉田茂氏の長男で、総理の長男といえば、親父の七光で利権と関係のある地位に陣取って羽振りのよい生活でもしていそうに思えるが、健一さんは親父さんとは折合いが悪く、吉田学校の優等生たちともいっさいつきあいがなく、確かどこかの大学の英文学の先生をやって身過ぎ世過ぎをしていた。英国仕込みの紳士だし、英語もよくできたから、おそらく教師をしてもらう収入よりは、翻訳や評論を書いて得た収入で生計を立てていたのであろう。
『文藝春秋』が、そうした妥協しない生活態度に目をつけ、吉田さんのエッセイ集「宰相御曹司窮乏す」というタイトルをつけ、盛んに売っていた。おそらくご本人はこのタイトルに苦笑を禁じえなかったであろうが、ジャーナリズムの要求をはねかえすよりは、その中に自虐的なユーモアを感じたのではあるまいか。いつも文藝春秋のバーで飲んでいて、片時も手からウイスキーのグラスを離さなかった。話をするときも、いまに相手がおかしなことをいうだろうと待ち構えていて、まだ何もいわないうちから、笑い出してしまうようなポーズをとっていた。あんなに酒を飲んでは、ものの味がわからなくなってしまうのではないかと私は心配したが、吉田さんは、『舌鼓ところどころ』とか『私の食物誌』といった食べ物の本をつぎからつぎへと書き、のちに丸谷才一さんから戦後の食べ物に関する三大名著の一つに数えられている。
『檀流クッキング』で、同じく名著にあげられた檀一雄さんも、大酒飲みだったが、日本料理は本来「酒の肴」というところから出発しているから、酒飲みが肴の話をするのは自然にかなった道理だとも思う。
その吉田健一さんご夫妻が私の家へ来られたのは昭和三十二年十月三日で、当夜のお客は、池島信平ご夫妻、今日出海ご夫妻、小林秀雄、丹下キヨ子、それに創元社社長の小林茂さんであった。小林秀雄さんを誘ったのは小林茂さんであり、当時、創元社では私の書いた『東洋の思想家たち』を出版するかどうか、きめかねていたが、小林秀雄さんが反対して流れた、とあとできいた。小林秀雄さんは、「孔子や荘子のような何千年もの淘汰に耐えてきた古典を、邱さんのような青二才にそう簡単に料理されてたまるか」といい、のちに私が株や金儲けの話を書いて話題になると、「あれはニセモノだと思っていたが、やっぱりそうだろう」とご自分の先見の明を誇られたそうである。
小林秀雄さんのような生き方をしてきた人にとって、経済と文学が両立できるということは到底、理解をこえることだったのであろう。私の『東洋の思想家たち』は講談社から出版されて、その後たびたび版を重ねてきたが、最近も日本経済新聞社から新版が出ている。その中に出てくる孔子や韓非子に対する私の解釈は、二十何年たった今日、読みかえしても、それほど訂正を要するとは思えない。こうなると、学問のレベルの問題ではなくて、人生に対する流儀の違いだから、どちらが正しいといい争っても仕方がないのであろう。

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