彼女の理想は、「女が仕事をしたり、稼いだりすること」ではなくて、「亭主が稼いで、妻は高級車に乗ってお金を使いに行くこと」だと信じて迷いがないのである。
「私のことを皆がセンセセンセというけれど、全部教えてしまったら、皆がセンセになってしまうじゃないの。だから、私は自分だけセンセでいたいわ」と冗談をいいながら、どうしても料理の先生にはなりたがらなかった。雑誌社の人が電話をかけてきて、料理をつくってもらえないかと頼むときは、女房に対しても「センセ」という敬称を使う。「センセはおられますか?」というと、女房はそれが自分のことだとわかっていても、「センセはいま台湾に行っています」といって電話を切ってしまう。日本にはテレビや雑誌に「出たがり屋」というのがいるが、うちの女房はどうみてもその反対だから、とうとう雑誌社もあきらめて、あまり料理をつくって下さいと頼みにこなくなった。「あなたが馬車馬のごとく働いて、私がそのお金を使うのがこの世のしあわせです」といってはばからないのである。
中央公論社の嶋中鵬二夫妻は、邱飯店のもっとも古いお得意様であるだけに、早くから邱永漢夫婦共著による料理の本を書いてみたら、としきりに勧めてくださっていた。二年サイクルくらいで、いつもそのことをいって、うむことを知らなかった。きく方もきく方で、いつもききながしにして二十年の歳月がたってしまったが、あるとき同社の『暮しの設計』の編集部が何を思ったか、正式に女房のところへ談判にやってきた。たまたま嫁に行ったばかりの娘が家へ帰ってきて、このことをききおよび、
「ママ。私たちに財産を残してくれても仕方がないから、将来、私たちの子供に、これはおばあさんがつくった料理の本よ、といって自慢のできるものを残してちょうだい。私もお手伝いしますから」
とわきから口添えをした。この一言がきいたのか、女房はにわかにその気になり、一回に十皿から八皿まで、八回に分けて料理をつくり、それをカメラ撮影することを承知した。珍しいこともあるものだな、と私は話をきいて感心したが、料理をつくって人をご馳走するのは簡単だが、それを写真に撮るのは厄介なことである。はたして第一回目をやってみると、予想外に手間をとったので、女房は気をムシャクシャさせて、娘を睨みつけ、
「これもみんな、あんたのせいよ」
と恨みがましい文句を並べたそうである。しかし、いっぺん約束したことをいまさらキャンセルすることもできないので、スケジュール通りの撮影が行なわれた。一冊の本にするために台湾から遊びにきていた私の妹にも、「台湾の家庭料理十種類」をつくってもらい、また台湾旅行に行ったときはどこへ食べに行ったらよいか、カメラマンの吉田和行君と編集者に同行してもらって、「食いしん坊天国台湾」という特集も組んだ。三十軒ばかりのおいしい店の料理を写真入りで説明し、さらに私が巻頭に「料理は"舌"で覚えるもの」という文章を書いてなんとか恰好をつけた。これが同社から出た『母から娘に伝える邱家の中国家庭料理』と題する本である。

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