ところが魯から衛に入って、孔子はまた美人にひどいめにあわされている。衛の霊公の夫人南子は素行のおさまらぬ女で、むかしから関係のあった宋朝という情夫を国から呼んで来て大夫にしている。
孔子が衛の国に来れば、当然、自分の所へ挨拶に来るものと考えていたが、なかなかやって来ないので、使いをよこした。孔子がもし儒学者先生のいうような聖人なら、たとえ相手が勢力をもっていても、面会になど行かなかったであろう。ところか、孔子は会いに行ったのである。帳の中にいる南子に向かって孔子は頭を下げた。南子もまた答礼した。
そのとたんに南子の衣服についていた玉がぶつかりあって美しい音をたてた。
このことが弟子の子路に知れた。子路は孔子の弟子のうちでも孔子とは師弟関係が最も長く、おそらく彼にバカにされながら、しかも最も愛されたサンチョ・パンザであるが、血の気の多い男だから、師匠のこの背信行動に腹を立てた。
孔子は議論する代りにこう言った。
「もしわしのやったことが悪いことだったら、いまに天罰があたるよ、いまに天罰があたるよ」
同じことばを二度まで繰り返したところをみると、よほど照れくさかったにちがいないのである。
また、『史記』によれば、それから一月ほどして、霊公と南子が車に乗って町の中を回ったが、そのとき、孔子は後ろの車に乗せられた。すると、市中の人はことごとく南子の美しさに見惚れてしまい、孔子の存在などまったく忘れてしまった。
「色を好む以上に徳を好む人にわしはまだ会ったことかない」
と孔子は述懐している。また、孔子自身は酒を飲んでも酔うまではたしなまず、色気も大いに慎んだといわれているが、ふだん弟子に教えていることと明らかに相反する行為を、少なくとも二度は犯している。
一度目は、公山弗擾(こうざんふつじょう)という男が費城によって叛乱を起こしたときである。この男は魯の大夫季氏の家臣で、もう一人の家臣陽貨としめし合わせて、主人の季桓子(きかんし)を殺そうとした。
季桓子は孟懿子(もういし)という孔子に教えを受けたことのある大夫の家へ逃げ込んでかろうじて生命を助かったが、そのとき、公山弗擾は使いを孔子の所へ送って、孔子を招いたのである。
孔子はその招きに応じようとした。子路が驚いて、
「どうしてまた、あんな男の所へ行くのですか」と聞くと、
「いいチャンスがあるのにどうして行かせないんだ。わしが政治の実権を握ったら、東方に周のようなりっぱな国をつくりあげてみせるよ」
孔子が費に行くかもしれないと聞いた定公が驚いて、彼に中都の宰(長官)という役をくれたので、この挙はさたやみになったが、のちに、孔子は魯の軍隊を使って逆に費城を打ち破っている。
もう一度は[月弗(月へんに弗)]肸(ひつきつ)に招ばれたときである。この男は晉(しん)の大夫趙簡子の家臣で、中牟(ちゅうぼう)という城によって叛乱を起こした。このときも孔子が行こうとすると、子路がとめた。
「前に師匠は、私に悪いやつのところへ行かない、と言っていたじゃありませんか」
「そうそう、そんなことを言ったことがあったな」と孔子はトボけた。
「しかし、堅いものはいくらみがいてもすり減らない、と言うじゃないか。ほんとうに白いものは、いくら染めても黒くならない、とも言うじゃないか。わしは苦瓜じゃないから、いつまでも垣根にぶらさがっているわけにはいかないよ」
これは子路のような男から見れば、おそらく一種の裏切り行為であろう。しかし、孔子はチャンスさえあれば、いつでもそれをつかもうとするだけの用意があった。
このことは、彼が国家ないし社会に対するひとつの理想図を抱いてはいたが、それを実行するためには既成秩序を無視してはばからなかった証拠になる。彼はしばしば裏切り者であり、しばしば、オポチュニストであり、本質的にリアリストであった。彼がきわめて豊富な才能と、多彩な魅力的性格をもちながら、そのリアリストとしての力量を発揮できなかったのは、おそらく彼のあまりにも人間的な欠陥によるのであろう。彼の死後、二世紀のあいだ、儒学の徒以外の者で、彼をよく言うものは一人もいなかったことをみてもわかることである。
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