ところで、同じ現世派の孔子が、世の中を生きていくためには徳以外にないといっているようにわれわれは教えられてきた。それはある意味で真理であるけれども、あまりにも飛躍がありすぎ迂遠でありすぎて、『論語』が現代人に不人気になった最大の原因である。
もっとも、『論語』の不人気な(というよりは正しく理解されない)原因は、『論語』の配列の仕方にもある。「学びて時にこれを習う」というのは、孔子が政客として失敗したあげく、教育者に転向してから最後に到達した心境であって、その過程の説明がなくていきなり結論をつきつけるやり方であるから、戸惑わないほうがどうかしている。孔子をわれわれに納得させる方法は、孔子の思想的な成長過程に従って彼の言行を並べるか、もしくはわれわれに最も興味のあるトピックについての孔子の言行を述べるかの二つの方法しかないのではあるまいか。私の場合はトピックでいくことにしたが、これは私の好みによるものである。
さて、われわれにとって最も興味のあるのは、たぶん、徳よりは背徳のほうであろう。徳は偉大なものであるけれども、社会に及ぼす徳の影響力は知れたものである。俗に門弟三千人といって、孔子には門弟がたくさんいたようなことをいうが、今日、われわれの知っているかぎりでは実際には七十人あまりしかいない。出たり入ったりが無数にいたと孔門の徒は反駁するかもしれないが、史上に名の残っている彼の使徒のなかでほんとうに彼に心服し、同甘共苦をした者はおそらく十指を出ないであろう。それは孔子に徳がなかったというよりも、徳は本来、人間にとってそれほど力のあるものでないからである。そのことは孔子自身も痛感していた。
孔子は宋の王族の血統ということになっているが、おちぶれた士族の家に生まれて、魯の国の小役人になった。倉庫番を振出しに家畜の番人を勤めた彼がしだいに出世して内務大臣格の司空とか、法務大臣格の司寇(しこう)にまでなったのは、主として彼の知識と知謀によるものである。しかし、独自の社会観と政策をもって相当強引な政治をとったために多くの敵をつくっている。
当時、魯の君主は定公といったが、実権は三人の大夫、季孫氏、叔孫氏、孟孫氏が握っていた。三人はそれぞれ魯領内に居城を持ち、定公はそれらの家臣の言いなりになっている。孔子はこの三人の勢力を抑えるために、その居城を壊すことを定公に提案し、三つのうち二つまで壊したが、最後の一つを壊しそこなった。このために逆に三家を敵にまわし、しかもお隣の齊からは恐れられる結果となった。齊は美女八十人と飾り馬百六十頭を定公に贈り、定公は美女に夢中になって公務を三日サボるほど、熱をあげてしまった。祭りの日になっても祭壇に姿を現わさなかったので、孔子は愛想をつかして自ら魯を去ったことになっているが、本当は孔子のほうが愛想をつかされたのであろう。
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