売 ら ん か な
今日では三百代言はジャーナリズムの専売特許といった観があるが、春秋時代には後世諸子百家と呼ばれる連中がこの役割を果たしていた。
孔子およびその徒弟が妙ちきりんな服装をして、大道で学問の呼売りをしたり、権力をもった諸侯や大夫のところへ押売りに出かけたりしたことはじゅうぶん想像しうるところである。孔子の弟子の子貢は、弁舌の才に恵まれた男であるが、あるとき、孔子に向かってこんなことを言った。
「さあさ、ここに世にもみごとな玉があります。この宝を箱の中にしまい込んでしっかりかくしておきますか、それともいいお客さんを見つけて売りますか」
すると、孔子は即座に答えた。
「売るとも、売るとも。わしはよい買い手を待っているとも」
孔子が弟子を連れて国から国へと放浪してまわったのは、自分の才能をよい値段で買ってくれそうな相手を見つけるためであった。最も有利な条件で取引したいということでは、絹や真珠を売る商人となんら変わりはなかったのである。ただ自称三国一の花婿にはなかなか手ごろな買い手がつかなかった。
孔子はのちに自分の一生を振り返って、十五歳で学問に志し、三十歳で独立したと言っているが、この「三十而立(さんじゅうにしてたつ)」ということばは、サラリーマン根性を捨てて、一本立ちになろうとしたという意味であろうか。
三十歳の孔子は才知の優れた野心家であった。彼の才知の裏付けはいうまでもなく彼の向学心で、ちっぽけな寒村にも自分くらいの誠意をもった男はいるであろうが、自分くらい学問の好きな男はいないであろうと自負している。
彼が費の景公に謁見したのは、三十一歳のときといわれているが、このとき、彼の名前はすでに多少は人に知られていた。顔をつないでおこうかという意志がなければ、魯へやって来た景公に会いに行かなかったと思われるが、このときは彼の政見を聞いてもらっただけで、具体的な話まではなかったようである。記録のうえでは、秦の穆公(ぼくこう)についての彼の意見に景公が興味をもったことになっているが、当時の諸公にとって唯一の関心事は富国強兵策、つまりいかにして諸列強をしのいで自分の国を強大にしていくかということであったにちがいないのである。
その後、魯の国内で、大夫の季平子と昭公のあいだに争いが起こり、一時は昭公が優勢であったが、同じ大夫の叔孫氏が季平子に味方したために、逆に国王昭公が齊へ逃げ出すという事件が起こった。
このとき、孔子も弟子を連れて齊へ渡っているが、孔子はずいぶん若いころから弟子をもっていたらしい。「君子は和して同ぜず、小人は同して和せず」と孔子は言っているが、孔子が徒党を組んでいたことは事実である。
齊に行った目的は、魯を再興するためといわれているが、おそらく仕官のためであったであろう。彼はまず齊の重臣、高昭子の家臣になり、高昭子を介して、景公に近づいた。
景公が政治の要諦を聞くと、
「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしく」
と孔子は答えている。
景公は孔子のことばに感心して、彼を家臣に取り立てようとしたが、大夫の晏平仲(あんぺいちゅう)に反対されてさたやみになった。晏平仲は政治家としては海千山千の男で、齋が列強のあいだにあって、よく滅びなかったのは、彼の力によるものとされている。この男の反対にあったのは注目すべき事実であって、孔子が人物として彼のメガネにかなわなかったことを示している。三十五歳の孔子は音楽や芸術の好きな文化人で、才気走っていて、「剛毅朴訥」とはおよそ縁の遠い男だったにちがいない。
孔子は感情が異常なほど敏感に動く男だから、晏平仲を憎んだであろう。現世派の特徴として、この世界は自分を中心として回転していると思い込んでいただろうから、バカヤロウと心のなかで軽蔑したにちがいないのである。その後、不遇が彼につきまとい、あちこちでもっとひどいめにあって、修業も積まれてくるようになると、晏平伸を少し見直すようになった。
「晏平仲は外交家だ。だいぶたってからその偉さがわかるようになった」
孔子の魅力のひとつは、こうした才知派に似つかわしくない素直さのなかにあるのである。
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