文 学 青 年
孔子が今日に生まれていたら、ことばの現代的意味における文学青年になったにちがいない。私の知っているある編集者は、「あいつは役にたたない男だ」をいう代わりに、「あいつは文学青年だ」という表現を使っている。若いころの孔子が、実権を握った人々や実際に仕事を担当している人々から、そんな男として見られていたとしても不思議ではない。
事実、孔子は文学青年上がりの男であった。われわれの時代の文学青年がラディゲを論じ、『チャタレイ夫人の恋人』をあげつらい、太宰治に心酔するように、彼は周公を夢み、『詩経』を口ずさみ、古礼にこだわった。ことに古来の礼制に対する彼のこだわり方は、今日のわれわれをしてむしろ嫌悪をさえ催せしめるものがあるが、初期における彼の知識の内容が実は歴史と最も関係の深い礼制であったからであると考えるよりほかない。今日の多くの文学青年が自分自身の才能よりも、その文学的知識をふりまわしたがる傾向があるのと同じである。文学的知識が本人にとってたいして役にたたないのと同じく、時がたってみると、孔子の数々の言行のうちで、いちばん滑稽な感じを与えるのが彼のこの方面の知識である。彼はそれを誇りにしたばかりでなく、自分の敵を攻撃する具としてしばしば駆使している。
たとえば、孔子は季氏がその宗廟の庭で八佾(はちいつ)の舞を舞わせているのを評して、
「これが我慢できるなら、世の中で我慢できないものはない」
と極言している。孔子によれば、一佾は八人で、大夫は本来四佾すなわち三十二人の舞でなければならないのに、八佾すなわち六十四人の舞をさせるのは、天子を僭する行為で、礼を知らざる者なのである。覇者にも王道を行なわせようとする彼の政治思想からいえば、こんなことにいちいちけちをつけるより、ほかのことに目を向けたほうがよい。だからことさらにここで揚げ足をとるのは孔子が季氏を憎んでいたからと考えるよりほかないのである。
ところか、彼が魯の始祖周公を祭る大廟の中に入ると、ことごとにしつこく質問をした。
ある人が、礼、礼とうるさいことを言うが、あの男が礼を知っていない証拠じゃないか、と言った。孔子はそれを聞くと、
「いちいち聞くのが礼というものだ」と答えている。
孔子がまっ先に身につけていた才能は、おそらくこうした自己の行為を正当化する才能ではなかったかと思う。
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