貴 族 趣 味
孔子の祖先は宋の重臣ということになっているが、それは孔子にとってそれほど重要なことではない。孔子ほど人に名前を知られれば、孔子家の祖先は孔子であればじゅうぶんであり、事実、そのとおりになっている。われわれにとって興味があるのは孔子が育った家庭であり、それが彼のものの考え方や気質とどんな関係があるかということである。
孔子の父親は陬(すう)という所の大夫であった。陬は魯のなかにある村のひとつで、どの程度の村であったかはつまびらかでないが、かりに大きな村であったとしても、魯という国からみればしょせんは寒村の貧乏士族にすぎなかった。その貧乏士族が七十近くなってから十六の娘と結婚して生まれたのが孔子で、腹違いの姉が九人と、片輸の兄が一人いた。
『論語』のなかには孔子が自分の弟子のなかで、「南容という男が天下泰平であれば出世をし、乱世であっても牢屋に入れられる心配がない」と見定めて、兄の娘を嫁にやる記事が見えているが、そのほかには兄や姉のことはいっさい触れていない。いずれにしても、孔子が身分の低い家に生まれ、自分の学識と弁舌の才で、一国の大臣にまで出世したことはたしかであり、この一事実からしても春秋時代は封建的というけれども、今日われわれが想像しているほど不自由な社会ではなかったことがわかる。
そうした貧乏士族の出身であるにもかかわらず、孔子は情操豊かなる人間のつねとして、生活の万端にわたって、きわめて気むずかしい男であった。もし彼が現代に生まれていたら、一世を風靡する芸術家ないし雑文家になっていたかもしれないが、彼のために愛をささげようとする女性の一人すら発見できなかったかもしれない。『礼記』によれば、彼、彼の息子、彼の孫と三代にわたって離婚した記録があり、「女子と小人は養い難し」というかの有名な文句が如実に示しているように、女ではずいぶんてこずった体験をもっている。
もっとも、私のこの表現は公平とはいえない。てこずったのはむしろ彼の妻のほうであって、あの時代に夫のもとから逃げ出すのは、よっぽどのことがなければ起こりえなかったことであろう。
1   

←前章へ

   

次章へ→
目次へ
ホーム
最新記事へ