さて、衣服についても、孔子は洗練された感覚の持主であった。彼はふだん赤と紫を使用しなかったが、夏は一重の長杉の上に塵をよけるための上っ張り、今日でいうダスター・コートをつけた。黒い服には黒い羊の毛皮を、白い服には子鹿の毛皮を、黄色い服には狐の毛皮を対にして着る。ハンドバッグや靴の色にまで気を配る現代人の配色感覚と同じものである。
坂口安吾はポケットが一つだけの菜っ葉服を発明して自ら安吾服と名づけたそうである。
ポケットが一つというのは、今日の背広のようにポケットがたくさんでは、なにをどこに入れるかわからなくなってしまうからという、安吾のものぐさによるものだが、孔子は実用の観点から、右袖は左袖より短く仕立てさせた。家にいるときは好んで厚い狐の毛皮を着たが、寝るときには必ず寝巻に着替え、足の先まですっぽり被さって寝心地がよいように、わざわざ身の丈の一倍半に作ってある。そして、仰向けに寝るのは棺桶に入れられるときの姿勢だといって、少し角度を横にしてやすむ習慣であった。
『論語』のなかには拾おうと思えば、このほかにまだいくらでも材料がころがっている。
宗廟に出かけるときの態度、車に乗るときの姿勢、年寄に会ったときのポーズ……そうしたさまざまの行動は彼がいかに礼儀正しくふるまったかというよりは、彼がいかに気むずかしい男であったかを示すものである。
私は万事にかけて自己の流儀を主張する彼のこうした態度を、林語堂に従って貴族趣味と呼んだが、これはもちろん、西洋の貴族とはだいぶ違ったものである。なかでも女性に対する考え方が根本的に違っている。われわれは孔子の容貌についてはいかめしい印象をもっているが、彼が美男子であったと想像することはできない。同じ肖像画を見ても、結婚生活を知らずして死んだキリストは若く美しく、女性に愛されそうな男である。彼は女性が天国へ入ることを許した唯一の聖者であるが、かりに彼が女性を許さなかったとしても、依然女性の人気は集まったであろう。地上の生活にこだわらず、遠い、はてしのない世界を展開して、ロマンチックな想像力に訴えようとする基督の性格は、本質的に女性の気質に合致するものだからである。
ところが、孔子は自分の妻からさえ捨てられた。それは彼のような気質の男が当然支払うべき代償であるが、「怨みには正しさをもって」という彼の流儀に従って、女性を問題としないことにしたのである。さっき私は孔子が現代に生まれていたら、一世を風靡する芸術家になっていたかもしれないと言ったが、流行作家にはなれなかったにちがいないとだけは断定できる。なぜならば今日の読者の大半が女性であり、彼は彼の女性観のゆえに、彼女たちの支持を失うにちがいないからである。編集者は彼の原稿を突き返して、そして、小声で言うだろう。
「先生のおっしゃることは正しい。私も大いに認めているんですが、しかし、どうも読者には話のわからんのが多いですからね」
そこで孔子は、まず編集者の無能をののしり、またべつの雑誌社へ行って、同じことを言われ、しまいには我慢がならなくなって、
「こんな世の中なら、いっそ筏に乗って大海へ出てしまいたい」
と嘆息するにちがいない。
しかし、結局、あきらめきれず、「才能のある者は生きているうちに必ず認められるはずだ」と考えなおし、また出なおして行くのである。いつかは編集者のほうが頭を下げに来る日があるにちがいないという確信をいだきながら。
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