『論語』の郷党篇には孔子の日常生活に対するいろいろの記述がある。俗に「三代富貴」といって、一代で財をなした人間は家屋敷に凝り、三代それが続いてはじめて食生活に凝るものであるが、孔子の飲食に対する好みは次のようなものである。すなわち「飯は白ければ白いほどよい」「挽肉は細かければ細かいほどよい」(挽肉といっても今日のように機械でやるのではなく、まないたの上で包丁でたたいてはひっくり返す動作を長い時間続けなければならないのである)「飯の味が変われば食べない」「魚の腐ったのは食べない」「肉の古くなったのは食べない」「食べ物の色がよくないのは食べない」「においの臭いものは食べない」「料理の方法の悪いのは食べない」「季節はずれのものは食べない」「肉の切り方が正しくなければ食べない」また「調理に使った醤油が合わなければ食べない」といったたぐいである。同じ肉を食べる場合でも、飯の味に肉が勝つほどはたくさん食べないし、酒には定量がなかったが、酔っぱらうほどは飲まなかった。しかも、肉も酒も市販のものにはいっさい手をつけようとしないのだから、妻たるものの苦労は人並みでなかったことがわかる。食べ物のなかでもとりわけショウガが好物で、食膳をさげたのちも少しずつ食べた。主君のお祭りからさがった肉は必ずその日のうちに食べてしまわねば気がすまず、自分の祖先を祭ったお供物の肉は三日間は食べるが、それを過ぎるともう口にしない。食べるときはいっさい口をきかず、寝るときも寝物語は禁物である。また食事の前に、飯や野菜からお汁に至るまで少しとって仏壇に供えさせる。
孔子が山海の珍味をたしなんだ記録はないが、いまここに挙げたものの食べ方を見ただけでも、孔子の口は相当おごったものであったことがわかる。「季節のものでないと食べない」(不時不食)という考え方は、いまでもシナ料理の根本的な態度のひとつであり、ショウガは肉類に特有の臭味を消す役割をつとめてくれる。正しい醤油を使うこと、正しい肉の切り方をすること、そしていちばんの傑作は店売りのものを買って来ないこと、これらの態度はひとつとして料理道にかなっていないものはない。少しく余談にわたるが、私の育った家でも「ちょっとソバ屋をよんで来い」などということは絶えてなかった。どんな手数のかかる料理でも必ず自分の家の台所で作ったし、最上のごちそうは料亭ではなくて、自分の家で食べている。この習慣はいまだに続いていて、いつだったかわが家に招待したある日本の小説家の奥さんは、「ごちそうさま」と言う代わりに、「あなたの奥さんにならなくてよかった」ということばをのこして帰った。
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