第64回
「日本列島改造・いのちの鎖」論(7)
僕は「小さな患者」としてはもちろんですが、
一介のジャーナリストとして、日本列島に連綿と伝わる
「時間呪縛」と「身土不二」については、
わりかし真剣に考えています。
繰り返しますが、
日本列島という風土では、「和の癒しの場」の特性が
どの国、どの地域より優れて伝承されているという考え方です。
僕が考える「日本改造列島・いのちの場」の基点です。
環境立国、福祉立国、観光立国、芸術技術立国、
平和立国などと、西洋から借りて来た、
おざなりな戦略キーワードなどを使わず、
「癒しのお祭り場」「いのちの游息場」といった
歴史や風土に根差した「一体直感」=
「人間のこころの鎖」で、
日本及び日本人のこれからを語りませんか?
ちなみに、僕の敬愛する帯津良一博士には
「この世は養生の練習場」だという高邁な発想があります。
また、エッセイストの鮫島純子さんには
「この世は愛の練習場」という考え方があります。
とてもエンパシーを感じていますが、
僕は「この世はいのちの游息場」だと思って、
若い時から、仕事も遊びとして楽しんできました。
いまは、ガンさんとの付き合いも楽しめるときがあります。
*游息(ゆうそく)とは、自然に憩い楽しむという意味。
老子・荘子の教えを説いた2200年前の中国の思想書
「淮南子(えなんじ)」に出てくる。
ま、ガン爺如きが、偉そうに飛躍した話をしてはいけませんが、
これまでの西洋哲学や西洋医学の
借り物だけでは、これからは
にっちもさっちもいかないという話です。
このインターネットの「自在・游息」時代だからこそ、
「静的タブー視」論で誤魔化すことなく、
「動的均衡」や「動的調和」、
そして「游息自在」「直感闘病」といった、
これまでないがしろにされていた
「ホリスティックな逆発想」を柔軟に見つめ直すことが、
いよいよ大切になって来た、と痛感しています。
70歳を超えて「末期ガン」を疑われつつも、
体が衰えていく分、心や魂の領域がゆったりと
広がってくるのは不思議なことですね。
僕は、「小さな患者」として「一人のガン爺さん」として、
『日本列島改造・いのちの場』論や
『日本列島改造・いのちの鎖』論などをぶつぶつ言いながら、
いっときでも「ご機嫌な時間を楽しみたい」――
そう願いつつ、一歩また一歩、日々を過ごしているわけです。
あなたも、ときには「日本列島地図」を逆さまに眺めて
これからの「動的調和」とは何か?
本来の日本人にとっての「いのちの場」とは何か?
「人生の楽しい癒しの場」とは何か?
「いのちの游息場」とは何か?
ちょっと、考えてみませんか?
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