誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第87回
クラス会での逆転

前回、人生はどこかで帳尻が合っているという話をした。
だから、私みたいに最悪の青春期を送った者でも、
うまくすれば少しはましな
壮年期、老年期を送れる“可能性”がある。
生きることに四苦八苦している若者たちよ、
望みを捨てなさんな。
人生、それほど捨てたものではないのだ。
生きることにからっぺたのこの私が言っているのだ。
少しは信じてもバチは当たるまい。

帳尻という話になると、私はいつも同窓会のことを思い出す。
中学時代の同窓会は10年ごとにおこなわれ、
私は20歳の時、40歳の時と過去2回出席している。
すでに述べているように、
小中高と陽の当たらぬ青春期を送り、
ガールフレンドはいてもボーイフレンドの皆無だった私が、
どうして同窓会に顔を出すのだ、という話になろうが、
なに、ホンの気まぐれなのだ。
教師を含め、格別会いたい人間などいない。
だが、同級生たちがどんなふうに変わったか。
そのことにはとりわけ興味がある。

そしてここに驚くべき公理を発見する。
それは
〈クラス会における“力関係”は小中高時代のそれと逆立する〉
という公理である。
級長やら何やら、クラスのまとめ役をやっていた者たちは、
概ね勉強ができ、運動もまあまあで、
何より明るい性格で人望もあった。
学級委員の選挙などは一種の人気投票だから、
ネクラなボンクラ人間は決して選ばれることはなかった。

ところがどうだ。中年過ぎてのクラス会で、
その場を仕切り、元気がよく、ひときわ輝いているのは、
金輪際学級委員になど選ばれることのなかった、
地味で目立たないボンクラたちばかりではないか。
かつて女王様のようにふるまっていた成績優秀な女たちは、
なぜかことごとく精彩を欠いている。
私はこの光景を見て、ひそかに快哉を叫ぶと同時に、
(神さまはいたって公平だな……)
とあらためて感じ入ったのである。

実際口をきいても、
味のある話ができるのは昔のボンクラたちのほうで、
学校の成績が良かった連中の話は一様におもしろくない。
どれもみな新聞や雑誌の受け売りばかりで、
自分の言葉を持っていないのだ。
これはいったいどういうことなのか。
私は思うのだ。
「劣等感こそが人間を鍛え、厚みのある人格を作る」のだと。
だから世のボンクラたちよ、悲観することなどない。
人生なんて、所詮ちょぼちょぼなのだ。


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