時代の美意識

第25回
苦労を「苦労」と言える贅沢

63歳という年齢からすると、
仕事からリタイアして、趣味や余暇三昧でもおかしくはない年代。
でも私は、働くことの喜びを今も感じています。
そもそも、すべてが満たされ、何もしなくてもお金に不自由せず、
ただ息をしているだけのような生活だったら、
毎日はきっとおもしろくも何ともないに違いありません。

私は「窮鼠猫を咬む」タイプで、
追い詰められるほど元気になっていきます。
難問を前にして、
それを解決したり改善していくほうがおもしろいし、
働く意欲にもなります。
困難には立ち向かっていくタイプですので、
多くの方から「ご苦労なさったでしょうね」と言われるのですが、
自分では今現在もこれまでも、
苦労しているとは一回も思ったことがないのです。

子どもを育てながらフリーのヘアメイクとして働いているとき、
小学生の子どもが、40度の熱を出し、
真っ赤な顔をしてふうふう言っている。
そんな子を置いて現場に行かなければならないことも
確かにありました。
子育てと仕事の両立では、
こうした切なくて後ろ髪を引かれるような思いを
何度も味わいました。
その生活には二度と戻りたくはないけれど、
その当時もそれを苦労と思うことはありませんでした。

それは、ひとつには、やることが次々と目の前に出てきて、
こなすだけで精一杯、
苦労していると感じる余裕さえなかったからでしょう。
だからといって、
苦労と自覚するほどの暇もなく一所懸命生きてきた、
そのこと自体が「苦労」であるというのも違うと思います。
大変ではあったけれど楽しかったからです。

私の人生は、
苦労していると思うゆとりがなかったといったほうが
正しいかもしれません。
「苦労している」と自分で自分のことを言えるうちは、
それだけゆとりがある、自分に甘えがあるということ。
苦労していると口に出して言えるのは、
もしかしたら贅沢なことなのかもしれません。


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2009年8月4日(火)

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