中国古陶磁器 そのロマンを求めて-天青庵

単なる美術品ではございません

第42回
白磁は北から南へ・・

宋の五大名窯と謳われた「定窯」では
膨大な量の白磁を焼いており、
その作品は現代にも比較的多く残されています。

では何故、定窯において
形に崩れのない精品が大量に生産できたかと言うと、
それを可能にする一つの発明があったからです。

それは「伏せ焼き」という技法です。

当時すでに、
陶工は釉薬を完全にコントロールしていましたので、
窯の中で不要な灰や異物が焼き物に降りかからないように
一つ一つの焼き物を
「鞘」と呼ばれる窯道具に詰めて焼くようになっていました。

しかし、従来のやり方だと一つの鞘に一つの器物しか入らず、
一度の窯入れで焼ける数量には限りがありました。

そこで、「伏せ焼き」の技法が発明され(下図)
一度に焼ける数が飛躍的に増え、
定窯の製品は広い範囲で流行した訳です。

そういう理由もあり、
北宋時代に中国北部で大流行していた「定窯」でしたが、
更に北方にあった女真族の国『金』の侵攻によって、
その窯の火は消える事になります。

一般市民と共に多くの陶工達も戦禍を逃れ、
南へ南へと移動し、
そこでまた生計を立てる事になりました。

いわゆる南宋時代の始まりです。

南に逃れた陶工達は、
各所で陶磁器の製作に取り掛かりますが、
思うような白磁を作る事はできませんでした。

「定窯」の焼き物に使われる土は
その薄くてシャープな器形を保つ為
「腰の強さ」が必要とされる上、
白さも必要なのでどこでも簡単に
北方の「定窯」で作った作品を再現する訳にはいかなかったのです。

しかし、白磁作りに適した土で焼き物を作っていた場所を
ついに見つけます。
それがあの有名な「景徳鎮」です。
景徳鎮の近くには最高の磁器土を産出する
高嶺山(カオリンシャン)があったのです。

そして、北方から逃れてきた陶工達が
「定窯」で作っていた作品を
南方の景徳鎮で再現する事に成功します。
そうした作品群を「南定」と呼びます。

この「南定」は薪を原料にした還元焼成で焼かれたので、
釉薬が溜まった部分が僅かに青く発色します。
その為にそれらは青白磁と呼ばれます。
また、この南宋時代の景徳鎮の青白磁は
「影青」とも呼ばれて
日本人にも大変人気のある焼き物の一つとなっております。

「影青」という呼び名の方が趣がある上に
作品の魅力をよく伝えていると思います。

定窯の伏せ焼きの図

 

「南定」と呼ばれる南宋時代景徳鎮の青白磁

山口県立萩美術館・浦上記念館収蔵品より
作品解説ページ

 
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2008年1月16日(水)

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