中国古陶磁器 そのロマンを求めて-天青庵

単なる美術品ではございません

第114回
政治に翻弄される陶磁器製作

明時代の陶磁器は、
開祖洪武帝期から始まり、
永楽期、宣徳期、成化期、嘉靖期を経過し、
その技術水準を大きく高めてきました。

それは、それぞれの皇帝の権力をそのまま反映したものでした。
政治的に安定し、
皇帝の力が行き届いている時代には、
景徳鎮にあった皇帝直属の官窯に対する要求も
より厳しく高度なものとなり、
必然と素晴らしい作品が生み出されました。

しかし、明王朝が衰退していく、
万暦期、天啓期、そして最後の皇帝となった崇禎期に至るに従い、
官窯における陶磁器製作に大きな変化が現れます。

まず、万暦期には皇帝の散財や官僚の汚職、
そして天災や大火事、
日本など外部からの敵の侵略への対応で、
国の財政が大変厳しくなっていました。

そんな状況下にあっても、
万暦帝は莫大な数の焼物の焼成を官窯に命じています。
国がすでに崩壊の危機にあるのに、
今まで通りに自分の権力を示す事や
散財に夢中になるのは国を滅ぼす為政者の共通点です。

そんな万暦帝の無茶な要求にも
官窯の陶工は応じなければなりません。
しかし陶工達の雇用環境は悪く、
良い作品を作るモチベーションを維持する事など
不可能な状況となりました。
そして、次第に焼物の品質は落ちていき、
万暦期後半にはとても官窯の製品と思えないような
雑な焼物が生産されるようになったのです。

更に、その頃になると政治が乱れ、
財政も逼迫していましたので、
景徳鎮においても良質の材料を手に入れる事が
困難となってきました。

特に輸入品であった絵付け用の高級顔料などは手に入らなくなり、
仕方なく程度のよくない国産品を使うようになりました。

それでもまだ、
万暦期には宮廷からの注文があっただけマシでした。
明時代も終焉に近づいた天啓期に入ると、
もはや官窯品の注文さえ途絶えます。

それでも、景徳鎮の陶工達は生計を立てていかねばなりません。
もちろん、多くの窯が閉鎖を余儀なくされましたが、
残された窯は輸出に活路を見出します。

その時代に、「天啓染付」「天啓赤絵」「芙蓉手」などと呼ばれる
作品が日本にたくさん輸出されています。

さらに、明王朝最後の皇帝となった崇禎帝の時代にも
日本やヨーロッパ向けの輸出品が焼かれています。

このように時代時代の皇帝の影響が強かった陶磁器産業ですが、
そういう政治の動きに翻弄されながらも、
中国の素晴らしい陶工達は古代から現代まで
逞しく窯の火を燃やし続けて来たのです。

明時代も終盤、天啓期の作品

行政からの統制がなくなり、
自由奔放な作風の輸出品が焼かれる

山口県立萩美術館・浦上記念館収蔵品
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2008年7月2日(水)

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