中国民俗研究家・上田尾一憲が語る、中国民俗の魅力

第42回
日本へ来た楊貴妃。

安禄山の反乱により、
死に追いやられた楊貴妃ですが、
中国にも日本にも
楊貴妃生存説が残っています。
楊貴妃は安禄山の兵から逃れる途中に
処刑されたとありますが、
処刑人は楊貴妃のあまりの美しさに見惚れ、
殺してしまうにはあまりにも惜しいと思い、
付き添いの女官を身代わりに処刑し
楊貴妃をコッソリと逃がしてあげたのです。

それから、楊貴妃は南の方へとのがれ
今の上海の辺りから船に乗り日本の山口県
湯谷町の向津具半島北西の唐渡口に漂着したのです。

それから間もなく、楊貴妃はその地で亡くなり
湯谷町向津具久津二尊院境内の片隅に立つ五輪塔が
楊貴妃のお墓だといわれています。

楊貴妃は処刑され
とっくにこの世にはいないものだと思っていた
皇帝の玄宗でしたが、
ある日夢の中に愛しの楊貴妃が現れ、
玄宗にこのように言いました。
「私はあの時処刑されず密かに逃れ、
日本に辿りついたのです。
弱りきった私を
村の方々はやさしく介抱してくれたのですが
もうこの世のものではなくなってしまいました。
天と地に別れてはいても、心は一つ
またお会いできる日を待っております」と。
その後、玄宗は楊貴妃の霊を慰めるために
秘蔵の阿弥陀如来と釈迦如来の二体を
白馬将軍の陳安に持たせ日本へ向かわせました。

しかし、楊貴妃が日本のどこで亡くなったのか
探し出すことができず、結局は京都の清涼寺に
その像を預けて帰国しました。
その後、楊貴妃のお墓が長門の国、
久津の天請寺という寺にあることがわかり、
像をその寺に移す事となりましたが
清涼寺の坊さんは
あまりにも素晴らしいこの2体の像を
手放すのが惜しくなり、
これと同じ像を仏工の名手、
天照春日に作らせ、
陳安が持って来た像と、新しく作った像
一体づつをそれぞれの寺に分けて安置することになりました。
その後、久津の天請寺は二尊院と呼ばれるようになり
今でも楊貴妃の眠る地として観光客が訪れています。
そこへお参りすると楊貴妃のような
綺麗な女の子が生まれるといわれ
妊婦さんがよくお参りにくるそうです。


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