中国民俗研究家・上田尾一憲が語る、中国民俗の魅力

第43回
3000人から選ばれた美女 ―王昭君―

楊貴妃に並び、中国の4大美女の1人である王昭君。
絶世の美女と呼ばれながらも、
生まれて来た時代が悪かったのか、
それが運命だったのか・・・。

古代中国の王朝は自分の国を上手く治める以外にも
北方の異民族、匈奴から国を守るために、
相当頭を痛めていました。
秦が誕生してからは、独裁者として有名な
始皇帝が万里の長城を建設し、
匈奴をはるか北の方へ追いやることに成功しました。
しかし、その始皇帝が亡くなり、秦が滅亡し国が乱れ始めると
匈奴はその内乱の次期に乗じて始皇帝時代に追い出された
地域を次々と取り戻し勢力を蓄え、
その後は国境付近の町や村に頻繁に現れ
殺戮、略奪を繰り返すようになりました。

それを阻止しようと前漢の初代皇帝劉邦は
兵を差し向けましたが大敗してしまい、
それ以後、皇帝は単于(匈奴の君主の称号)に対し
常に彼らの顔色をうかがい、
頻繁に貢物も送らなければ平和が保てない状況となりました。
そんな状況がしばらく続きましたが、
前漢7代皇帝劉徹(武帝)の時代になると
その匈奴を撃滅させようと、万里の長城の修復と同時に
匈奴を征伐するという強気の政策もとられ、
一時は成果を得たものの膨大な軍事費がかかり、
漢の国力もだいぶ衰えてきました。
しかし、匈奴の方も大分堪えたみたいで
内乱が起こり、東西2つに分かれてしまいました。
そのうち西の匈奴は依然強力でしたが、
東の方は衰え気味だったので、
和睦を結びたいとの申し入れがあり
漢との関係をよりよくするために、
皇帝の血を引く子女を妻にしたいと
東匈奴の単千である乎韓邪(こかんや)が申し入れてきました。
漢も西匈奴の対抗する為には
東匈奴を味方につけておく必要がありましたので、
その申し込みを受け入れました。
しかし、皇帝は野蛮族である匈奴に
自分の血を引く子女を出す気は全くなく
後宮の中にいる3千人の女性の中から適当な女性を選んで
嫁に出そうと考えました。
その3千人分の1人に選ばれた不運な女性が
中国4大美女の1人王昭君だったのです。


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