中国民俗研究家・上田尾一憲が語る、中国民俗の魅力

第51回
あぁ無念・・・。

呉王夫差は越より送られてきた絶世の美女
西施にメロメロになってしまい
いつもいっしょに酒を飲んだり、踊ったりと、
政治にも民衆にも全く関心をもたなくなりました。
実はこの西施は越の軍師范蠡(はんれい)より
呉王夫差を骨抜きにするように命令されていたのでした。

国をほったらかしにして西施とばかり遊んでいる呉王夫差に
見兼ねた呉の臣下、伍子胥(ごししょ)は国の事を考え
何度も諌めましたが、
呉王夫差は楽しく遊んでいる時にいつも邪魔をする伍子胥の
忠告を全く聞かず毎日西施と一緒に遊んで暮らしていました。
このままでは呉は滅びると考えた伍子胥はついに
剣を持ち、呉王夫差と西施の前に出て
「わが国が傾くのはそもそもこの西施がいるからだ!
この剣にて是非西施の首をはね呉国をお救いください!」と
忠言しました。
この言葉を聞いた呉王夫差は烈火の如く怒り、
「この無礼者!!お前は死刑だ〜!」と怒鳴り
伍子胥はついに処刑される事になりました。
処刑の際、伍子胥は「この呉は3年以内に滅び
呉王夫差が捕虜として連れて行かれるであろう。
その様子を見届けるために、私の目玉をくり抜き
それを呉の城の東門に架けてくれ。
それから、私の墓の側には梓(あずさ)の木を植えて
それで呉王夫差の棺桶を作ればいい」と頼みました。

それを知った呉王夫差は更に怒り
伍子胥を処刑した後に、死体を馬の皮で作った
酒袋に入れて揚子江へ捨ててしまいました。
その後、揚子江が氾濫するのは伍子胥の
強い恨みと怨念からだと言われ、
民衆は彼の為にほこらを建てて哀れみました。
国の為を思い、自分を犠牲にしてまで
王に諌言したが報いられず・・・。
伍子胥、さぞかし無念だったでしょう。

伍子胥はあの「孫子の兵法書」で有名な
孫武と共に先代の闔閭(こうりょ)から
呉に仕えてきた重臣でした。


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