中国民俗研究家・上田尾一憲が語る、中国民俗の魅力

第52回
ついに会稽の恥をすすぐ!!

呉の伍子胥(ごししょ)が処刑された後は
呉王夫差を諌める者は誰もいなくなってしまいました。
夫差は益々西施にのめり込み、彼女の為に
宮殿を造ったり、宝物をプレゼンとしたり、
お金を湯水の如く使い、国の経済状態にも
大きな影響が出るようになりました。

これを聞いた越国の軍師范蠡(はんれい)は
ついにこの日が来たと喜び、自らが大軍を率いて
呉に攻め入ったのでした。
しかも、その時ちょうど呉は晋を攻めている最中でした。
呉王夫差は越が攻めて来たと聞き、晋との戦いをすぐさま切り上げ
呉へと引き返して来ましたが、越の范蠡は隣国の斉と楚にも
援軍を頼んでいましたので、呉は越・斉・楚それに今まで
攻めていた晋の軍にあっという間に包囲されてしまいました。

呉の軍は見る見る内に少なくなり、
とうとう数十人となってしまいました。
これはもう駄目だとあきらめた呉王夫差は
越王勾践に使者を送りました。
この使者は勾践にこの様に言いました。
「かつて会稽山で越王勾践殿をわが国の王夫差は
お救いしました。その時の様に今回はわが国の
王が越王の配下となり、越王の為に何でもしましょう。
もし昔の会稽での事を覚えているのであれば、今回は
どうぞ呉王の命をお助けしていただけないでしょうか」と。
これを聞いた越王勾践は、会稽山での事を思い出しながら、
「今の呉王夫差の状況は、あの日の私と同じである。
彼の今の気持ち・・・私にはよ〜くわかる。
とても他人事とは思えん。あの時に
命を助けてもらった借りもあるし、ここは夫差の命くらいは
助けてやっても・・・」と言ったとたんに
軍師の范蠡は
「なにを仰る!!あの時、呉王夫差は会稽にて殿の命を助けたが
ために今ここでこの様な状態になっているのです!!
それをわざわざ見習うことはない!!」と言って猛反対。
越王勾践も范蠡の言う事を聞き呉の使者の
要求を断りました。
その使者が呉王の所へ戻る前に范蠡は
自ら兵を率い、呉王夫差を生け捕りに
したのです。越王勾践もついに
「会稽の恥をすすぐ」ことが出来たのです。


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