中国民俗研究家・上田尾一憲が語る、中国民俗の魅力

第53回
范蠡(はんれい)の選択。

ついに捕らえられた呉王夫差。
呉王を捕らえ呉の国も手にした越王勾践。
勾践は早速夫差を処刑する事に決め、
夫差は呉の城の東門から処刑場である
会稽山の麓へと連れていかれたのです。

「呉の城の東門」には、あの命をかけて
呉王夫差を何度も諌めたが聞き入れてもらえず、
処刑前に、自分の目玉を城の東門へ架けてくれと
頼んだあの伍子胥(ごししょ)の一対の目が
呉王夫差をあざ笑うかのように、しっかりと
見届けていたといわれています。

夫差は処刑をされる前に、
「これでは死んだあの世で伍子胥に会わせる顔がない
どうか、私を処刑した後は、見えないように顔を
布でしっかりと覆ってくれ」と頼みました。
そして、会稽山の麓にて呉王夫差は処刑され
長かった呉と越の戦いも幕を閉じました。
奈落の底から這い上がり、
范蠡の言う事を素直に聞き入れ、呉を手に入れた勾践、
天下を目の前にしながらも、
伍子胥の言う事を聞き入れず、最後を迎えた呉王夫差、
う〜ん、人の意見もきちんと聞かないといけませんね。

その後、越王勾践は名軍師范蠡(はんれい)と共に
晋、楚、斉等の国々と会盟し、ついに中国の覇者と
呼ばれるまでになったのです。
中国の覇者となった越王勾践は
「今日、覇者と呼ばれるようになった私があるのもすべては
范蠡!お前のお陰だ。よってお前をこの国の万戸候に封ずる!」と
范蠡に言いました。
(※万戸候とは万戸の民を統治する領主、
とにかくすごく高い位!!)
しかし、勾践の長頸烏喙(ちょうけいうかい)の
(※ 首が長く口が尖っている人相)
顔を見て、忍耐強く苦しみに耐えることはできても
残忍で貪欲そして猜疑心が強いあの人相では
安楽は共にはできないと考え、
「大名(たいめい)の下には長く居座るものではない、
功を成し名を遂げたら、身を退くのが天の道です。」と言い
せっかくのお話を断りました。
范蠡は中国の覇者となった越王勾践は
きっと私の才能を恐れて粛清するに
違いないと考えての行動でした。


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