伏見緑さんが語る「あなたの知らないドイツ」

第95回
フランクフルトへの道

ドイツのフランクフルトに出る、と
二転三転の末、最終決定となった時には、
2003年がすでに半分は終っていました。
そして、2004年の移動と決まってみれば、
今度は、飛び上がるほど慌てふためきました。
辞令があるわけでも何でもなく、
自己都合で決めることとはいえ、
国外に出るために準備をする時間が
全く残されていなかったのです。

それまでの空白の2年間は一体、何だったのか?
と思いながら、
移り住む前に「やらなければならないこと」を
済ませなくては…と焦りました。
大学ノート2冊分になるその当時の走り書きを
今頃になって読み返してみると、
自分の慌てぶりが本当によく分ります。

それにしても、第84回に記した、微風のような話から
全てが明かになるまで、2年は経ています。
話をしてくださった方を疑いはしませんでしたが、
それにしても、よく時間を掛けてくださったものです。
先行きが分らぬ不安から逃げ出したいなら、
本気で逃げることができたかもしれない時間でした。
しかも、国を出る最後の最後まで、周りの多くの人にまで
心細かく気遣ってくださっているのが、
身に沁みるほどよく分りました。

あまりに細かな気遣いなので、
何かで自分の気持ちを早く伝えなければと思いました。
でも、私には直接の面識が無く、日本語では通じないうえ、
気が利いた英語の文言が全く思い浮かばないのです。
「少なくとも自分は前後を覚悟して喜んで出ます。
思いがけず、このチャンスを得たと捉えて
心から感謝しています。」とだけ伝えたく、
ドイツの野花を小皿に1枚描いて、人づてにお渡しました。
後から丁重な礼状が届き、
何とか私の気持ちは通じたようでしたが、恐縮でした。

国を出る人が1人いると、その小さな身の回りで
共に出る人もいれば、残る人も出ます。
どちらの立場であっても、
人それぞれの覚悟や理解が必要で、
そういう状況をお互いに納得しあうまでの過程は
決して、簡単ではありません。
その辺の事情を察していらしたのかもしれません。


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2007年6月13日(水)

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