二、〃一本刀土俵入り〃の世界

我が家の最初のお客が佐藤春夫先生と檀一雄さんであったことについては、わけがある。
まだ東大経済学部の学生だった頃、私は高校時代に引きつづいて、文学青年気分が脱けきらず、休みになると、原稿用紙をリュックの中に入れ、湿泉宿などに行って、下手クソの小説を書いていた。同じ経済学部の二年上に、同じ台湾から留学にきていた郭徳棍という友人がいた。

この友人が、あるとき、私に、「芥川賞の候補になった若い小説家に、檀一雄さんという人がいる。まだ名前が出かかった程度の駈け出しだけれど、知り合いになっておいたらどうだい?」
なんでも、東亜経済研究会というのができ、誰かの口ききで、そこの嘱託になっている人だそうである。私自身、文学青年であったが、文学で飯を食っていけるとは露ほども思っていなかったし、小説家と知り合いになっても仕様がないと考えていたので、暖昧な返事をしただけで、本人とは遂に顔を合わせなかった。ところが、戦後、香港と日本の間を往復するようになって、帰りの船の中で読む本を買おうと思って、本屋に出かけて行ったら、『オール読物』を見ても、『小説新潮』をめくっても、檀一雄という名前が盛んに出てくる。あるときなど、神戸の本屋に入って、『文嚢春秋』をめくっていたら、捕鯨船に乗って南氷洋に行った檀さんのルポが載っていて
「この人、人気作家になったんだなあ」
と漸く実感が湧いてきた。

さて、香港から東京へ家族連れで引越してきた私は西川満さんに連れられて、長谷川伸先生のところへ挨拶に行き、そのまま新鷹会のメンバーとして研究会に出席するようになった。長谷川伸先生は、「一本刀土俵入り」とか「沓掛時次郎」とかいった代表作からもうかがわれるように、股旅物の大家であり、日本的義理人情の家元のような人であるが、それだけに新しく小説を書こうと志している若い人に対しても面倒見がよく、小説の研究会、芝居の脚本の研究会など、いくつかの会を主宰していた。新鷹会というのは、その中の小説研究会につけられた名前で、会員には、土師清二、山手樹一郎、山岡荘八、村上元三、大林清、棟田博、鹿島孝二、山田克郎など錚々たるメンバーがおり、ちょうど私と前後して入会して、のちに賞をとった人に、戸川幸夫、新田次郎、平岩弓枝、池波正太郎の諸氏がある。

小説を書くのに、グループで集まって研修してはたしてどれだけの効果があるか、私はいまでも疑問に思っている。文章書きは個人的才能に負うところが大きく、才能のない人がいくら人に欠点を指摘されても、その欠点がなおるものでもなければ、にわかに才能に磨きがかかるとも思えないからである。現に、新鷹会のなかにも、この道何十年というベテランがおり、苦節十年というコトバもあるように、何十年やっても芽が出ない人がたくさんいた。これらの人々に対して、私は、
「一年間、一所懸命小説を書いてみるが、もし駄目だったら、才能がないと思ってあきらめるつもりだ」
といったら、生意気なやつだと叱られた。小説を書いて名をなすためには長い、苦しい修行が必要で、駈け出しが偉そうなことをいうな、というわけである。しかし、私はこういう仕事は才能がなければできない仕事であると考えていた。「才能がないとわかったら、なるべく早く足を洗うにこしたことはない、人生、何も物を書くだけが世渡りの方法じゃない」というのが私の信念だったのである。だから、つい本当のことをいってしまったのだが、実際にやってみると、一年目に直木賞の候補になったものの、その期は当選しなかった。かといって、途中でやめることもできず、結局、もう一年かかってどうやら直木賞を受賞し、一人立ちできるようになったのである。

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