東京に出てきた私は、世田谷区の九品仏というところに、三間つづきの鰻の寝床のような細長い借家を、家賃一万六千円で借りて住んだ。東京へ来たのは、小説を書く目的もあったが、主な目的は、香港で生まれた長女世嬪の首すじにできた紅い痣をなおすためであった。週にいっぺん、約一年間、治療のために通わなければならない国立第二病院は世田谷区の駒沢にあり、そこの門前からバスに乗って着いたところが自由ヶ丘であった。その自由ヶ丘で、不動産屋にとびこんで「どこかこの辺に貸家はありませんか?」と尋ねたら、隣駅の九品仏へ連れていかれた。家を見て一度で話がきまり、財布の中から、一ヵ月分の家賃に相当するブローカー料を払ったが、まだ皆の月給が一万円くらいの時分であったから、親子三人で部屋三つの家はどん底生活というほどでもなかった。

その一番奥の四畳半が私の仕事部屋で、机も椅子もすべて姉の家からの借物であった。その中古の机の上で、私は「濁水渓」という、一篇が百枚ずつの三部作になった小説を書いた。小説の内容は、第一部が戦争中、東大に留学していた台湾人の青年が志願兵となることを拒否して日本国中を逃げまわる話であり、第二部は戦後、夢を抱いて台湾へ帰ってきた青年が二・二・八事件という反政府運動にまき込まれて、失意のうちに台湾を脱け出す話であった。さきに書いた「密入国者の手記」は、長谷川先生の主宰する『大衆文芸』に発表されたが、今度も同じ『大衆文芸』に発表してもらうべく、私は編集長の島源四郎さんを訪ねた。島さんは昭和のはじめにあった『新小説』という雑誌の編集長だった人であり、長谷川先生とは、奥さん同士が姉妹だったこともあって、新鷹会の雑誌の編集の責任者であった。新人の発掘に異常な情熱をもち、私のような駈け出しの書いた原稿でも、いちいちていねいに読んでくれたうえに、親切な感想を述べてくれる親切な人だった。

島さんは私の「濁水渓」に対しても、雑誌に掲載することにはすぐ同意してくれたが、百枚だと予定ぺージ数をとび出してしまい、予算をオーバーするといって難色を示した。結局、印刷費のとび出した分は私が個人で支払うことで折合いがつき、確か一回につき、二万何千円かの代金を負担した記憶がある。ついでに申せば、私が書いた短篇小説を島さんが『面白倶楽部』という娯楽雑誌の編集長に見せたところ、「三篇三万円で買うが、どうだろうか」という返事が戻ってきた。新鷹会の売れない作家の中にはこういう雑誌で生計を立てている人もあったが、私は雑誌をバラバラとめくってみて、どうも自分の踊る舞台でないような気がしたので、お金は欲しかったが、お断りをした。お金をもらわずに痩せ我慢をしたばかりでなく、同人雑誌の同人費を払うみたいな形で、自分の原稿書き稼業をスタートさせたのである。

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