三、〃邱飯店〃開店

私は小説家として一日も早く一人立ちできるようになりたいと思っていたので、頭の中はいつも小説のことで一杯であった。

病床にあった檀一雄さんは、やがてベッドの上に起きあがれるようになったが、石にあたった傷口の手当てがあるので、すぐにはベッドを離れることができない。
「いまが一番ひまだから、原稿を持っていらっしゃい。いまなら、見てあげられますよ」
慶応病院に見舞いに行くと、檀さんはそういってくれた。私が自分の書いた小説をおいて帰り、二、三日してまた見舞いに行くと、
「邱さんは原稿の書き方を誰に教わりましたか?」
「別に誰に習ったということはありませんが……」
と怪訝な顔をして答えると、
「いや、原稿用紙の埋め方のことですよ。はじめて小説を書く人のなかには、原稿用紙の埋め方も知らない人が多いでしょう。一行目の一番上を一字あけておくとか、会話になったときは、カギをつけて、その次のマス目から書きはじめるとか、行をかえるときは、また上の一字をあけるとか、誰かに教わらなければ、ちゃんと書けないものですよ」
「さあ、何とはなしに、見様見真似ではじめただけですけれど」
小説の中身よりも、原稿用紙の書き方のことをいわれたのにはびっくりした。

私は「濁水渓」につづいて、「検察官」とか「敗戦妻」とか「客死」という小説をつぎつぎと書いていたが、病院に行くたびに、新しく書いたものを持って行くので、檀さんは感心して、
「いくらでもつぎからつぎへとできてくるのですね。いったい、いつ書くのですか?」
「ほかにやることがないものですから、一日中、机に向かっているんです。二日に一篇ぐらいの割合で書けます」

ある日、私が「刺竹」という短篇をもってたずねて行くと、檀さんは手放しで賞めてくれ、
「この一篇だけで、君の小説家としての才能を認めます。君は百万円作家にはなれないけども、十万円作家にはすぐなれます」

百万円作家とは、月に原稿料収入が百万円以上になる人のことで、昭和二十九年の時点で、百万円の収入があるということは、大新聞に連載小説を書かせてもらえる作家に限られていた。それに対して、十万円作家とは、『新潮』や『文学界』や『群像』に、四、五十枚くらいの短篇を月に一篇か二篇載せてもらう、いわゆる純文学作家のことである。当時は、『新潮』や『群像』に書いて、新人でせいぜい一枚五百円か七百円、『オール読物』か『小説新潮』に書いて、やっと千円程度であった。つまり、私は流行作家にはなれないが、文芸雑誌に名をつらねる程度の物書きにはなれますよ、というのである。

「日本人は、究極において日本的義理人情にしか興味を示さないから、君のような小説では新聞社がうけつけてくれないだろう。もっとも、それは文学としての評価とは何の関係もないことだけど」

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