やがて檀さんは退院できることになり、慶応病院から石神井公園のお宅に戻ったが、あとできいたところによると、家へ真っ直ぐ戻らず、退院したその足で、新潮社を訪れて、私の原稿を『新潮』の編集者に売り込んでくれたそうである。

しかし、それらの原稿は、檀さんの強い推輓にもかかわらず、長い間、お蔵にされたままだった。編集者というのは、無名の作家にはまことに冷たいもので、新人の発掘を志しているというけれども、自分の目に自信をもっていないものが多いから、自らすすんで冒険はやりたがらない。結局、私の「刺竹」という小説が『新潮』に掲載されたのは、それから一年半以上もたって、私が直木賞を受賞してからのことであった。

ある日、檀さんは、師匠のところへ行くから、一緒に行かないか、と私を誘ってくれた。師匠とは、佐藤春夫先生ことである。佐藤春夫といえば、「さんまの歌」を中学時代の国語教科書で習ったばかりでなく、文学少年だった頃の私が愛唱した幾多の珠玉の様な詩の作者である。「殉情詩集」とか「車塵集」とかを、私は諳んじることができたし、「酒、歌、煙草、また女、ほかに学びしこともなし」なんていうのは、いまも覚えている。また「女誡扇綺譚」とか「霧社」は私の故郷を旅行したときの産物であり、確か谷崎潤一郎の夫人に横恋慕して失恋していた直後南方旅行を試みたと何かで読んでいたから、その頃の作品ということになる。その後、恋が成就して、大正末期に、三人連名で、友人たちに、女房を譲渡する旨の挨拶状を出したことで世問の物議を醸した。そんなプライベートなことまで知っているのは、私が佐藤先生の熱心なファンだったからであろうが、まさか自分がそういう偉い先生のところへ連れて行かれるようになるとは思ってもいなかっただけに、胸のとどろくのを禁ずることができなかった。

佐藤先生の家は小石川の関口台町というところにあった。塀も壁も薄いピンク色に塗った、一見、中国趣味と西洋趣味をチャンポンにしたような西洋館で、玄関をあがると、椅子をおいた応接間になっていたが、応接間の半分に畳がしいてあって、低い日本風の机を前に佐藤先生は正座をしていた。一見、豪放に見える檀さんも、佐藤先生の前に出ると、神妙な顔をしていて、何をきかれても、ハア、ハア、と書生のような応対の仕方をしている。
「この人が邱君です」と檀さんが紹介をすると、先生は縁なしの眼鏡の奥から私の方を覗き込むようにして、
「あの小説は合格です」と答えた。
檀さんが目下、現代社という出版社に頼んで単行本を出版することになっており、先生に推薦者になっていただきたいというと、先生はすぐに承知された。

佐藤先生の写真は、本や新聞紙上で何回も見かけたことがあるが、土佐の言葉でいえば〃異骨相〃という表現がふさわしい、一種、独特の風貌である。顔のつくりのなかで、一番目立つのがケタはずれに大きな耳で、しかもその耳の中身が外へむき出しになっている。目つきはギョロリとしていて、はじめて会う人はいかめしさを感じて、「怖い人だな」と思い込んでしまう。しかし、話をしてみると、諧謔的で、盛んに人を笑わせるようなことをいう。なんでもズバズバいうわりには、細かいところにも気がついて、やはり小説家だな、という神経質なところがある。反対に、奥さんの方は、客扱いがよく、お茶だ、お菓子だ、と忙しく立ちまわっているが、先生には遠慮のない口答えをし、先生が気を悪くするのではないか、と思うようなことでも平気で口にする。そのコントラストが漫才のやりとりみたいになっていて、一種独特の雰囲気をかもし出している。

そのときだったか、それとも再び伺ったときであったかは忘れたが、檀さんが佐藤先生に向かって、
「邱君の奥さんがお料理が上手で、先生ご夫妻をご招待したいといっています」
というと、佐藤先生はたいへん喜んで、
「それは有難いね」
と気軽に承知された。先生の立派なお邸と見比べて、私はあまりにも見すぼらしい自分の住んでいる借家を頭に浮かべて、
「でも、とても小さな家で、玄関を入って少し大股で歩くと、すぐ裏まで突き抜けてしまうような家なんです」
というと、先生は即座に、
「じゃ、短篇小説だね」
とおっしゃった。そのときの即輿ぶりがいかにも鮮やかで、今でも私の頭の中にはっきりと刻み込まれている。

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